西魏
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1.西魏(せいぎ)とは、秦滅亡後に、項羽がかつての魏の王族・魏豹を封建して立てた国。現在の山西省にあった。魏豹は項羽に対する諸侯の不満が高まると、項羽に背いて劉邦に仕えた。しかし、後に劉邦にも背き、劉邦の派遣した韓信の軍に敗れ、魏豹は捕らえられ爵位を剥奪し庶民に落とされ、西魏は滅亡した。
2.西魏(せいぎ 535年 - 556年)は、中国の南北朝時代に存在した国。北魏が分裂して建てられた。関中地方(現陝西省)を中心として版図とした。国号は魏で、同じく北魏から分裂した東魏と区別するために西魏と称される。
大丞相高歓を排除しようと謀って失敗した北魏の孝武帝は、洛陽から逃れて関中に入り、宇文泰に保護された。皇帝を失った高歓はやむなく鄴で元善見を帝に擁立する。これが東魏の建国である。対して帝を保護した宇文泰は孝武帝と相性が悪く、孝武帝を毒殺して元宝炬を帝に擁立した。こちらが西魏である。
西魏は宇文泰に実権をにぎられ、皇帝は宇文泰の傀儡であった。国勢は東魏に対して劣勢であったが、軍事的にはたびたび圧倒的な戦果をあげた。また南朝梁が侯景の乱で混乱している隙に四川地方を奪って版図を拡大した。恭帝のとき、江陵を陥して梁の元帝を自殺させた。梁の雍州刺史蕭詧を保護し、江陵に帰らせ、自殺した元帝に代えて梁主として立てた(後梁)。 宇文泰の死後に跡を継いだ宇文覚が、556年に恭帝の禅譲を受けて帝位につき、北周が成立する。ここに西魏は滅んだ。