西明石駅列車脱線事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西明石駅列車脱線事故(にしあかしえきれっしゃだっせんじこ)は、1984年(昭和59年)10月19日に山陽本線西明石駅構内において、寝台列車が脱線しホームに接触した列車脱線事故である。
[編集] 事故概要
1時48分頃、西明石駅を通過中の宮崎発東京行寝台特急「富士」(機関車+24系25形客車14両)の先頭客車(13号車)が脱線してホームに激突し、車体側面下部が大きく削り取られて大破した。最後尾の電源車を除く他の12両の客車もすべて脱線した。負傷者32名。
当日は西明石駅構内で保守作業が計画されており、「富士」の通過ルートは通常の列車線(山側)ではなく電車線(海側)に変更されており、機関士及び機関助士にその旨点呼で伝達されていた。しかし、機関士はこの伝達事項を忘れており、機関助士も駅構内進入時に機関士に注意喚起することがなかった。結果、構内姫路側にある電車線への分岐器の分岐側速度制限が60km/hであるところを通常の100km/hの速度のままで通過したため、遠心力により軽量の客車が大きく左傾して脱線し、そのままホームに激突した。事故が発生した時間帯は深夜であったが、ホームに衝突した部分はB寝台の通路側であったため就寝中の乗客への直撃は免れ、負傷者のみで済んだ。
[編集] 事故の影響
機関士は前日の夜、乗務前の待機時間中の夕食時に飲酒していた。本事故の2年前に発生した名古屋駅での「紀伊」の事故(鉄道事故を参照)と同様、寝台特急の機関士が飲酒運転を行っていたことや、機関助士が機関士に何も進言できない体質などの国鉄職員の勤務実態に対し、世論は厳しい非難を浴びせた。また当時は、国鉄が機関区を開放するイベントを催すなど、増収・印象向上に務めていた時期であったため、国鉄内部でも落胆が大きかったといわれる。
この事故は、すでに検討の俎上に上がっていた国鉄分割民営化をさらに加速させる大きなきっかけとなった。また、国鉄がATSに速度照査機能を持たせたH-ATS(現在のATS-P)の開発に踏み切る契機となった。
事故列車の先頭車が廃車となった。