藤村新一
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藤村 新一(ふじむら しんいち、1950年 - )は、民間の考古学研究家。旧石器捏造事件を引き起こした人物として有名。
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[編集] 人物
1950年生まれ。仙台育英高校卒業後、東北電力子会社の東北計器工業へ就職。工員時代に考古資料に興味を持つようになり、1973年には「宮城県古川市馬場壇発見の文字瓦」(共著、『遮光器』7、pp.18~21、みちのく考古学研究会)において線刻文字瓦を資料紹介した。翌年以降は、江合川流域の石器を中心とした踏査を始め、1975年にはこの時の仲間を主力とする石器文化談話会が結成され、石器探しの名人として活動した。仲間内では「ゴッドハンド(神の手)」の異名を馳せた。日本の旧石器時代史の争点であった前期・中期旧石器時代の遺跡を「発見」し、東北電力系の会社に勤務しながら1992年には民間の東北旧石器文化研究所設立に参加、99年に会社を退職し、同研究所職員となる。同研究所は平成12(2000)年8月には、NPO法人として認証〔2004年1月解散〕され、副理事長として活動した。旧石器時代の上限を次々と十万年単位で遡らせるほどの輝かしい成果をあげ、日本の前期・中期旧石器時代研究のトップグループの一人のように見なされてきた。
発見効率の良さや発見の様態が不自然であるとする意見、藤村をはじめとする東北旧石器文化研究所の「業績」への疑義等はあったが、学会では少数派であり、考古学界はこうした意見をほとんど軽視、または傍観してきた。藤村が所属する団体の調査に結果に疑念を抱く考古学関係者もいた。しかし、それを糾弾する人は少なく、疑念を抱くほとんどの人は彼らとの関係を絶って自分の研究業績に傷がつかないように保身した。彼らも意図的な捏造ではなく、勘違いや混入品だと信じていたようである。
また一説によると、在野のアマチュア研究者を評価してこなかった反動から当初段階で考古学界が検証を怠ってきたこと、その間に次々と驚異的な業績が重ねられ権威となったことからその後はもう逆らえなくなっていたこと、裏面には学閥的対立・考古学会の閉鎖的な体質もあったと言われる。
藤村による捏造が明らかになったのは、考古学界外からの指摘によるものだった。
発掘現場での藤村の不審な行動に疑念を持った人からの情報提供に基づき、毎日新聞北海道支社がチームを編成しての取材に着手した。藤村が参加している発掘の現場に張り込みを行い、あらかじめ遺跡に石器を仕込んでいるところの写真・ビデオ撮影に成功した。その後、直接の取材と捏造の確認を経て、平成12(2000)年11月5日の朝刊で報じた。それが発端となり、それまでの業績の一部が捏造であることが明らかとなった。その後、業績のほとんどが捏造であることが判明し、日本からは確実と言える前期・中期旧石器時代の遺跡が消滅した。このため、過去四半世紀に及ぶ日本の前期・中期旧石器時代研究のほとんどが価値を失い、登録遺跡(埋蔵文化財包蔵地)の抹消・教科書の書き直しなど、大きな影響が生じた。韓国にいたっては、この藤村の個人的な捏造を、日本の国威発揚のため歴史を捏造した、というようなニュアンスで報道したりするほどであった。彼が捏造にかかわった遺跡は宮城県が中心であるが、調査の指導などで呼ばれた北海道から関東地方まで広い範囲で捏造を行っていた。
藤村に対する告発も検討されたが、現行法では罪に問うのは難しいとして見送られた。
事件後、藤村は東北のある病院にしばらく入院していた。病状を理由に入院先の詳細は公開されなかった。またこれまで戸沢充則(明治大学名誉教授、日本考古学協会特別委員<当時>)が面会して捏造事件を引き起こした理由その他について告白を得た他は、病状悪化を理由に面会謝絶の状態が続いていた。
藤村の弁によれば、功名心から捏造を始めたものの、「神の手」などともてはやされるようになり、プレッシャーから捏造を続けてしまった、とのことである。当初は、捏造は一部と思われていたため、藤村に同情を向ける人もあったが、捏造の範囲が相当に広いことが判明し、世論は厳しさを増した。
[編集] 関連書籍・参考文献
- 毎日新聞旧石器遺跡取材班編(2003)『発掘捏造』新潮社 ISBN 4-10-146823-0
- 毎日新聞旧石器遺跡取材班編(2003)『古代史捏造』新潮社 ISBN 4-10-146824-9
- 捏造発覚直前の半生記:藤村新一(2000)「私には50万年前の地形が見える」『月刊 現代』2000年11月号
pp.112~119 講談社
[編集] 関連項目
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カテゴリ: 考古学者 | 旧石器時代 (日本) | 1950年生