菊池武包
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菊池武包 (きくちたけかね ? - 天文元年(1532年)?)は肥後国菊池氏当主。詫磨氏出身で詫磨武安の子である。
先代の菊池武経は配下の国人衆や菊池家中の重臣と対立し、1513年に阿蘇へ戻って弟・阿蘇惟豊に譲っていた阿蘇大宮司職を奪還する。空白になりかけた菊池氏当主の後継者として、大友義長の子である菊法師丸(後の大友重治)が迎えられることが重臣らによって決定され、その成長までの間、詫摩氏の出身である武包が菊池氏の家督を継ぐこととなった。菊法師丸の元服後である1520年に家督を譲っている。
武包の多くの事跡は不詳であるが、天草の志岐氏に対し、益城・宇土・詫磨郡の地に計百町歩を給した書状が残っている。
1532年に戦死とも、大野城で病没したとも言われている。