結城義綱
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結城 義綱(ゆうき よしつな、明応9年(1500年)頃? - 永禄2年(1559年)頃?)は戦国時代の武将で、白河結城氏10代当主。結城顕頼の嫡男で結城晴綱、小峰義親の父(義親については異説もある)。左兵衛佐。
1522年に左兵衛佐に任ぜられた。
白河結城氏は、一時期佐竹氏の内紛に乗じて勢力を拡大し、佐竹氏の本拠近くまで所領を広げたが、義綱の代には佐竹氏の反攻に遭い、次第に勢力を削られていった。
天文3年(1534年)、岩城重隆の娘と嫡男晴綱との婚姻をめぐって伊達氏と対立し、伊達氏と伊達側についた蘆名・石川・二階堂・相馬氏らと争う(滑井合戦)が敗北し、岩城氏との婚儀は果たせず、所領の一部も失った。そのためか、次代の晴綱は天文の乱で伊達晴宗から田村隆顕を背後から牽制するように要請を受けたが、晴綱はそれに応じず、積極的にこの乱に参加しなかった。
天文13年(1544年)、鹿島神社の別当寺である鹿王山最勝寺に銅鐘(梵鐘)を奉納した。この銅鐘は現存し、福島県内では数例、白河市内では唯一の中世の銅鐘として、歴史的価値と併せて貴重な資料となっている。鐘銘に義綱・晴綱父子の他、奉行の和知直頼と斑目広基、一族の南恵綱、新小萱篤綱、鋳物師の早山清次などの名が記されている。
1558年の書状を最後にその後の動向は不明であり、この頃に病死したと思われる。
白河 義綱(しらかわ よしつな、天正15年(1587年) - 寛永11年(1634年)、又は天正20年(1592年) - 寛永16年(1639年))は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。小峰義名の子で、白河義親の養子。白河義実、小峰朝景、白河朝清の父。宮内大輔。義総。
幼少のとき父・義名が病死したため、伯父の白河義親の養嗣子となった。
後に白河結城氏が改易されると、義親とともに仙台の伊達氏に身を寄せ客分となり、孫の宗広の代に伊達一門に列せられた。
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