第三次ミトリダテス戦争
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第三次ミトリダテス戦争(だいさんじミトリダテスせんそう)は、ポントゥスとローマの間に紀元前74年から前63年に起きた戦争で、三度にわたるミトリダテス戦争の最後のものである。この戦争ではミトリダテス6世が率いるポントゥスが先手を打って攻勢に出たが、ローマが逆転し、グナエウス・ポンペイウスの遠征軍がポントゥスを滅ぼした。ポンペイウスは余勢をかってアルメニア、シリア、ユダヤまでローマの勢力圏におさめた。
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[編集] 開戦まで
第二次ミトリダテス戦争の後、ポントゥスとローマの間の戦争は止んだ。しかしポントゥスに対する反乱や、カッパドキアとの国境争いがあり、地域の紛争は続いていた。前71年にセルトゥリウスがヒスパニアでローマに対する反乱を起こした。ポントゥス王ミトリダテス6世はセルトゥリウスの誘いに乗って、前74年にローマに対する戦争を起こした。
[編集] 戦争の経過
[編集] ルクッルスのビテュニア・ポントゥス戦役(前74年 - 前71年)
紀元前74年の春、ミトリダテスはアルメニアやボスポロスと同盟を結び、大軍を催してビテュニアに攻め込んだ。ビテュニア王ニコメデスは、この年に子供を残さず死に、王国をローマに遺贈していた。ビテュニアの新たな支配者として着任した総督のコッタは、カルケドンに立て篭もった。ミトリダテスはこの市を封鎖して、ビテュニアを制圧し、さらに属州アシアへ向かった。
ローマはグナエウス・ポンペイウスをヒスパニアに送り、属州アシアにはルキウス・リキニウス・ルクッルスを送り込んだ。ルクッルスは現地のものと合わせて五個軍団を中核とする軍を編成した。キュジコスの戦いは、頑強なキュジコス市の守りと、補給線を遮断したルクッルスの作戦のせいで、冬にはローマの勝利に終わった。ミトリダテス軍は退却中に大損害を出した。
その後、ローマはビテュニアの占領確保に、ポントゥスは軍の建て直しに時間をかけた。、ルクッルスは前71年に行動を起こしてポントゥスに攻め込み、ポントゥスのいくつかの都市を攻めた。迎撃に出たミトリダテスは、カビラの戦いで敗れてアルメニアに亡命した。ルクッルスはそのままポントゥス各地に軍を進め、全土を占領した。
この年、前71年には、セルトゥリウスの反乱とスパルタクスの反乱が鎮圧された。
[編集] ルクッルスのアルメニア戦役(前69年 - 前67年)
ルクッルスはアルメニアにミトリダテスの引き渡しを求めたが、アルメニア王ティグラネスは断った。ルクッルスはポントゥス平定が終わると、前69年にアルメニアに侵入した。エウフラテス川を越えたルクッルスは、ティグラノセルタという町を攻めた。ティグラネスはアルメニア軍を率いて救援に出たが、ティグラノセルタの戦いで敗れた。ティグラノセルタはギリシャ人傭兵の内応で陥落した。
ティグラネスはパルティアに援軍を求める使者を遣わし、ルクッルスは同じ国に援軍をよこすかさもなくば中立でいるよう求める使者を出した。パルティアは双方に色よい返事をして静観した。ティグラネスはミトリダテスに歩兵を預け、自らは騎兵を率いてルクッルスと対峙した。両軍の対陣が長引いたので、ミトリダテスは自国に戻ってポントゥス奪回にとりかかった。前67年に、ミトリダテスは陣頭指揮をとって会戦を挑み、二度にわたって勝利を得たが、二度とも自らの負傷のため追撃できなかった。
アルメニア戦役を略奪に頼って始めたルクッルスは、補給の困難を感じはじめた。ルクッルスは元老院に召還され、ローマ軍は引き上げ、ミトリダテスはポントゥスを回復した。
[編集] ポンペイウスの諸戦役(前66年 - 前64年)
ポンペイウスはヒスパニアの反乱を鎮圧した後に、地中海の海賊を掃討した。キリキア征服によってこの戦争が終わると、残るローマの敵はポントゥスだけになった。ポンペイウスはミトリダテスに対する戦争の指揮権をゆだねられた。
一度国を占領されたポントゥスの戦備は、本腰を入れたローマ軍に対抗できるものではなかった。ポンペイウスは後方からの兵站組織をしっかり構築しており、この面でも付け入る隙はなかった。幾度か交戦しつつ、ミトリダテスは小規模の軍隊を率いて退却を続け、ポントゥスからコルキスに脱けた。彼はコルキスからアルメニア、スキュティアを通って、アゾフ海に出て、ポントゥスの従属国だったクリミア半島のボスポロス王国にたどりついた。
[編集] 戦後処理
ポンペイウスはポントゥスを占領してからコルキスを通過し、ミトリダテスとの戦争が終了したと判断して、前65年にアルメニアに入った。
このときアルメニアでは、ティグラネス王と彼の王子たちとの間に争いが起こった。ミトリダテスの娘を母とした三人の王子のうち、二人は殺されたが、残る一人、王と同名のティグラネスはパルティアへ、ついでポンペイウス軍のもとに身を寄せた。続いて父親のティグラネス王がポンペイウスのもとに降ったので、ポンペイウスは父子が国土を分割するように仲裁した。しかし子の方のティグラネスがパルティアとローマの戦争を画策したため、ポンペイウスはこの王子を捕虜にして、彼に分割されるはずだった領土をカッパドキアに与えた。子のティグラネスは、ポンペイウスがローマに凱旋した後で、殺された。
前64年に、ポンペイウスは南下してシリアを滅ぼし、ユダヤを属国にした。
ミトリダテスはボスポロスで重税を課して軍を編成し、ガリア人と同盟してイタリアに侵入しようと考えた。しかし、前63年に息子のファルナケスが反乱を起こしたため、護衛兵に命じて自らを殺させた。ファルナケスはポンペイウスに使者を送り、ローマと講和して、ボスポロス王国を保った。
[編集] 参考文献
- Appian Roman History volume II (with an English Translation by Horace White), Harvard University Press, Cambridge and London, 1912. (アッピアノス「ローマ史」)