秋田明大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋田 明大(あきた あけひろ、(あきた めいだい)、 1947年1月2日- )は、新左翼活動家。日大闘争時の日大全共闘議長(総帥の地位)。広島県安芸郡倉橋町出身。
目次 |
[編集] 経歴
崇徳高等学校卒→日本大学経済学部入学。大学2年の時、サークル「社会科学研究会(社研)」に所属。1968年の日大闘争で全学共闘会議議長となる。アジを得意とはしなかったが、茫洋とした包容力で、全国一の動員を誇った日大全共闘を指揮した。「大衆」、「自己主張」、「自己否定」、「自然発生」、「大学解体」などの言葉を好んで使った。1968年9月、両国講堂で3万人の学生と共に古田重二良日大理事長・会頭を糾弾後、潜伏。しかし大学側が導入した機動隊の前に次々と拠点を失い、翌1969年3月12日逮捕された。これ以降全共闘運動は急速に衰退していった。運動終息後秋田は土木工事、自作詩集の立ち売りなどをする。現在は郷里の広島県音戸町に帰り、一人で経営する自動車修理工場で働いている。
[編集] 人物
- 学生運動が盛んだった時代、東大全共闘議長の山本義隆と並んで最も有名な人物であった。
- 本人曰く、『日大に入ったのは別に理由はないんだな。法政大学の社会学部に落ちちゃって、京都の龍谷大学にも受かってたけど、東京の方がイイダンベエというわけでね。経済というのも何となく社会科が好きだったからにすぎないしね』とのこと。
- 『20億円の使途不明金』が大学当局に発覚し、この事に秋田が怒りを覚え…というのがこの学生運動の最初の動機とされている。
- 当時は、明大を「めいだい」と読ませていた。活動の時期は約3年間である。その後、闘争時代の回顧を『獄中記 異常の日常化の中で』全共社 1969年に書き残している。
- 94年に全共闘白書編集委員会によって行われた全共闘参加者へのアンケート調査には回答も寄せている。
- もう一度「あの時代」に戻れたら運動に参加するか→「しない。アホらしい」
- 運動による損害→「有名になったこと」
- 運動を離れた主因→「別にないが強いて言えば生活」
- 当面の最重要課題→「生活」
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 日米安保50年(中日新聞) - 現在の顔写真あり
- 東大闘争と日大闘争
- 日大闘争by日大全共闘 経闘委ホームページ