神吉城
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神吉城(かんきじょう)は播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった城。平城。 一部遺構として土塁、空堀が残る。
[編集] 沿革
赤松氏一族の神吉氏が築城、初代城主は赤松円心子孫で播州明石郡の神出城主赤松範次(神出左衛門範次)が印南郡神吉の庄を領して神吉城を築き、範次の子・元頼が神吉城主となり神吉氏を称した。
神吉城は神吉の集落全体が城域で、中の丸・東の丸・西の丸・二の丸の4つの曲輪を持つ縄張りの城で、中の丸には低層ながらも天守閣が建てられていたといわれる。
現在、城跡は中の丸が常楽寺、西の丸が、真宗寺。
[編集] 秀吉の播磨攻め
加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏と羽柴秀吉が決裂した際、城主神吉頼定は、同じ赤松氏一族の別所氏についた。 このため、神吉城も秀吉と戦うこととなる。 周辺の野口城、志方城、高砂城とともに守りを固め、神吉頼定は三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。 しかし、秀吉は周囲から落とす作戦に切り替え、まず野口城が落城、神吉合戦が始まった。 神吉頼定は兵約二千人で籠城し、対する秀吉勢は織田信忠、明智光秀、荒木村重ら約三万人で攻め、秀吉勢は頼定の伯父神吉藤太夫を謀略で味方に引き入れ、頼定を暗殺し神吉城は落城したとされる。 常楽寺の本堂裏の墓地に城主神吉頼定の墓がある。
また、秀吉は神吉城を攻める際に、生石神社に対し、陣所に貸与せよと申し出たが、陣所には貸さぬと拒否されたため、焼き撃にしたとされる(時の生石神社宮司は神吉頼定の弟とされる)。
[編集] 関連項目
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