正木時茂
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正木 時茂
[編集] 正木時茂(戦国武将)
正木 時茂(まさき ときしげ 永正10年(1513年) - 永禄4年4月6日(1561年5月29日))は里見氏の家臣。正木時綱の子。正木時忠は時茂の弟。弥九郎、太膳亮を称す。
1533年、里見氏内部で内紛が起きて(稲村の変)、父・時綱と兄が戦死したため家督を相続した。里見義堯に仕え、1542年には勝浦城を攻めてこれを奪う。1544年には真里谷朝信を討ち、その所領である小田喜城(後の大多喜城)を奪って居城とした。そして、東上総における軍権を義堯から任されている。その後、永禄4年初頭の上杉輝虎(謙信)の関東出陣に際しては、義堯の嫡男・里見義弘に従って嫡男・信茂とともに参陣している。
時茂は槍術に優れており、その恐るべき武勇から『槍太膳』と称された。
旧来、没年は天正4年(1576年)とされてきたが、近年里見氏・正木氏ゆかりの寺院である妙本寺や慈恩院から、時茂の命日を示す資料が発見され、没年が大幅に繰り上がる事になった。これに従えば、以後の時茂の功績とされるものは第二次国府台合戦で戦死した嫡男・信茂や後に里見氏に反乱した養子・正木憲時のものとされている。
[編集] 正木時茂(里見義頼子)
正木 時茂(まさき ときしげ、天正4年(1576年) - 寛永9年6月20日(1632年8月5日))は里見氏の家臣。第7代当主里見義頼の次男。里見義康の弟。初名は「時堯」だったとされているが、確実な根拠はない。弥九郎、太膳亮を称す。母は前項の時茂の娘。
正木憲時が謀反を起こして討たれた(実際には義頼の家督相続に異を唱えたために粛清されたともいう)ために、正木氏に入嗣して当主となる。だが、1590年里見氏の上総没収に伴って安房に移住する。その後は里見氏の筆頭重臣として権力を振るう。
里見氏改易後は主君里見忠義とは別に鳥取藩に預けられてその地で没したという。子孫は鳥取藩主池田光政の岡山移封に従って、その家臣となった。
大変な怪力の持ち主で鳥取藩で相撲の技を見せて大いに賞せられたという伝説がある。