益子勝宗
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益子 勝宗(ましこ かつむね)は戦国時代の武将。下野守護・宇都宮氏の家臣。下野国芳賀郡益子城主。本姓は紀氏。家系は鎌倉幕府御家人 益子正隆を祖とする益子氏の当主。受領名は宮内大輔。子に益子安宗、芳賀高定。
益子勝宗は当初、益子氏の一門であった。しかし、天文14年(1545年)の3月、勝宗は兄益子勝家父子を討ち益子氏を継承した。ところが、翌天文15年(1546年)勝宗の追討を受けることとなり、勝宗は宇都宮氏を背くこととなった。勝宗は主君の追及を逃れるため、隣国常陸国の国人・結城氏の麾下である水谷氏のもとに走り常陸国下館に居住した。永禄2年(1559年)、下野国七井の矢島城を陥落させる。その後、天正4年(1576年)は高館城を修築して居城とし、さらに、七井の地に七井城を築いて五男益子勝忠を入れて城主とするなど勢力を拡大していった。
前年の天文8年(1539年)には宇都宮氏重臣の芳賀高経が宇都宮一門の壬生綱雄らと謀り、宇都宮氏の実権を握らんと宇都宮忠綱の遺児を宇都宮城主にしようとしたが、守護 宇都宮尚綱はこれを察知し、飛山城を急襲して高経を自害させていた。そこで、芳賀氏を討った尚綱は、益子勝宗の三男に芳賀氏の家督を継がせ、芳賀高定と名乗らせた。その後、勝宗の嫡男である益子信勝は那須氏配下の大関氏に仕え、家督は益子安宗が継いだ。
ただし、この時期の益子氏の系譜は大変混乱しており、天文7年(1538年)9月22日に69歳で没したとする説と文禄2年(1593年)11月27日に65歳で没したとする説を記した系譜の2種類が存在する。