白木義一郎
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白木義一郎(しらきぎいちろう、1919年(大正8年)9月20日 - 2004年(平成16年)1月25日)は、昭和中期(1940年代後半~1950年代前半)の東急フライヤーズのピッチャ-として活躍したプロ野球選手で、プロ野球界出身初の国会議員。創価学会初代関西支部長。池田大作の妻・香峰子は従妹。
[編集] 球歴
- 1937年 - 慶応商工野球部のエースとして、春の選抜大会及び夏の全国大会に出場。
- 1941年 - 慶應義塾大学野球部のピッチャーとして通算27試合登板10勝2敗の成績を残し、応召。
- 1946年 - セネタースに入団。背番号18。30勝22敗で最多勝利のタイトルを獲得。
- 1947年 - セネタースが東急フライヤーズに名称変更。防御率1.74で最優秀防御率のタイトルを獲得。
- 1950年 - 3月12日~5月25日にかけて、連続74イニング無四球のパシフィックリーグ記録を樹立。
- 1952年 - 阪急に移籍。同年引退。
プロ野球通算成績は、242試合登板、1725イニング、97勝98敗、防御率2.83、534奪三振。
[編集] 政歴
- 1956年6月 - 参院選大阪地方区に創価学会系無所属として出馬し初当選(連続4回)。
- 1961年 - 公明政治連盟の結成に参加。
- 1962年 - 参院選で15議席の大台に乗せ、院内会派・公明会の結成に参加。
- 1964年11月17日 - 公明党結成に参加し、原島宏治委員長の下で副書記長に就任。同年12月9日、辻武寿委員長の下でも副書記長に留任。
- 1965年 - 参院選後に辻委員長の下で副委員長に就任。
- 1967年2月 - 衆院選後に竹入義勝委員長の下で副委員長に留任。
- 1974年 - 副委員長を退任し中央統制委員長に就任。
- 1980年6月 - 政界引退するも、中央統制委員長に留任。
- 1984年12月 - 中央統制委員長を退任し、公明党の役職から退いた。
- 2004年1月25日 - 腎不全のため死去。享年84。