畠山昌人
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畠山昌人(はたけやま まさと 1981年5月4日 - )は、北海道北見市出身のプロボクサーである。
札幌協栄赤坂ボクシングジム所属でプロデビュー。女性トレーナー赤坂裕美子との二人三脚で、北海道ジム初の日本王者となった。
通産20戦中、家住勝彦と2戦、北野隼と2戦、林田龍生とは実に3戦も試合をしているなど、再戦経験が多い。また、対戦した16人中、実に5人が日本・東洋・世界タイトル獲得経験者と、強豪との対戦も非常に多い。
2005年6月28日の試合直後に網膜剥離が発覚し、引退した。
引退後は札幌協栄赤坂ジムで、トレーナーとして働いている。
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[編集] 戦歴
- 1999年6月21日、札幌協栄赤坂ジム所属でプロデビュー(4R判定勝ち)。
- 1999年12月17日、3戦目で後のOPBF東洋太平洋ライト・フライ級王者林田龍生と対戦し、4R判定勝ちを収める。
- 2000年8月7日、5戦目で林田龍生と再戦。4R判定負けを喫する。
- 2002年7月8日、11戦目で北野隼の日本ライト・フライ級王座に挑戦。最終Rに北野からダウンを奪うも、ジャッジのミスでスリップ扱いにされる。結局、このジャッジのミスが響いて10R引き分けとなり、日本王座獲得に失敗。
- 2002年11月11日、12戦目で北野隼の日本王座に再挑戦。10R判定勝ちで日本ライト・フライ級王者に輝く。
- 2003年4月21日、高山勝成を相手に日本王座の初防衛戦を行う。序盤から高山の手数に押され気味だったが、後半から盛り返し、9R逆転TKO勝ちで初防衛に成功。敗れた高山はその後、1階級下のミニマム級で日本王座とWBC王座を獲得している。
- 2003年7月21日、小山泰裕を相手に2度目の防衛戦を行う。8RTKO勝ちで2度目の防衛に成功。
- 2003年10月20日、OPBF東洋太平洋ライト・フライ級王者の山口真吾と、日本・東洋王者対抗戦を行う。序盤は畠山、終盤は山口が押す一進一退の攻防の末、10R引き分け。
- 2004年2月16日、日本王座3度目の防衛戦で、林田龍生と3度対戦。両者最後の対戦となったこの試合は、畠山が10R判定勝ちを収め、日本王座3度目の防衛に成功。
- 2004年6月21日、宮城英和を相手に日本王座4度目の防衛戦を行う。10R引き分けで辛くも防衛に成功。
- 2004年9月20日、増田信晃を相手に日本王座5度目の防衛戦を行い、10R判定負け。約2年間保持した日本王座から転落した。
- 2005年3月21日、半田友章を相手に再起戦を行い、10R判定勝ち。再起に成功する。
- 2005年6月28日、再起2戦目、ペット・サクルンルアンを相手に地元・北海道で初の凱旋試合を行い4RTKO勝ちを収める。そのリング上で、増田信晃への再戦と、世界王座奪取をアピールする。
- しかしその数日後、畠山が右目の異常を訴え、網膜裂孔・網膜剥離と診断される。
- 2005年8月16日、JBCのルール規定により、正式に現役引退を発表。その際、畠山は専門誌のインタビューに「試合に出られなくなっても、何らかの形で大好きなボクシングは続けます」とコメントしている。
- 2005年11月21日、後楽園ホールで畠山の引退式を行う。引退式のリング上で畠山は「自分の人生はまだこれから。ボクシングで学んだ経験などを大切にして、挑戦する気持ちを忘れずに、これからも戦い続けていきたい」とコメントを残し、8年間のプロボクサー生活に幕を下ろした。
[編集] 引退後
- 2005年9月下旬、約1ヶ月の入院生活を終え、現役時代に所属していた札幌協栄赤坂ボクシングジムでトレーナーを開始する。現在は、現役時代のトレーナー赤坂裕美子と共に、後進の指導にあたっている。
- 2006年8月2日にWBA世界ライト・フライ級王座決定戦(ファン・ランダエタ対亀田興毅)を観戦した際は、自身のブログ内で、判定に対する不服感と、自身が現役時代に追い求めていた世界王座が「ありえない」形で亀田に渡ってしまったショックを訴えていた。
[編集] 戦績と獲得タイトル
- 生涯戦績20戦14勝(5KO)3敗3分
- 第29代日本ライト・フライ級王者(防衛4)