町尻量基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
町尻 量基(まちじり かずもと、明治21年(1888年)3月30日 - 昭和20年(1945年)12月10日)は、日本の陸軍軍人、華族。仏印駐屯軍司令官、化兵監、第6師団長、陸軍省軍務局長を歴任し、階級は陸軍中将勲一等功三級子爵に至る。伯爵壬生基修の四男で、正四位子爵町尻量弘の養嗣子となる。賀陽宮邦憲王の第一王女由紀子女王を妻とする。もと壬生基綱。陸軍士官学校(21期)、陸軍大学校(29期)では共に優等の成績で卒業。侍従武官・東宮武官の壬生基修陸軍少将伯爵は兄。
明治21年3月に子爵壬生基修(後に伯爵)の四男として生まれ、後に町尻量弘子爵の養嗣子となる。陸軍士官学校に進み、明治42年5月27日に優等で卒業。同年12月25日に陸軍砲兵少尉に任官される。士官候補生第21期の町尻の同期には第16師団長石原莞爾陸軍中将や、第2方面軍司令官・東京防衛軍司令官兼東京師管区司令官を歴任した飯村穣中将、第17軍司令官百武晴吉中将らがいる。陸軍大学校に進み大正6年ここでも優等の成績で卒業する。その後陸軍中佐だった昭和5年5月20日から侍従武官を務め、昭和7年8月8日陸軍大佐に進級する。昭和10年3月15日から近衛野砲連隊長に就任、昭和11年3月28日陸軍省軍務局軍事課長、昭和12年3月1日陸軍少将進級と共に再び侍従武官に補される。昭和12年10月5日から陸軍省軍務局長を務め、昭和13年4月14日北支那方面軍参謀副長に転ずる。同年6月10日第2軍参謀長として武漢作戦に参加する。昭和13年11月1日から再び軍務局長に就任するが、実は先の第2軍参謀長の時に作戦文書を紛失していた為、昭和13年12月29日から停職一箇月の処分を受ける。処分後軍務局長に復帰し昭和14年1月31日から調査部長を兼ねる。同年8月1日に陸軍中将に進級し同10月2日参謀本部附、同12月1日から第6師団長に親補される。昭和15年4月29日勲一等旭日大綬章受章。昭和16年4月10日教育総監隷下の化兵監に就任、昭和17年11月10日仏印駐屯軍司令官に進む。昭和19年11月22日の参謀本部附を経て昭和20年5月24日予備役編入。同年12月10日薨去。家督は次男の量光が継ぐ。量光は後にキングレコード社長に就任する。
妻・由紀子との間に長男町尻量利の外、長女登喜子、次男量光、三男量福、四男小泉量豊らがいる。登喜子は講談社社長野間省一の妻となり、同じく講談社社長となる佐和子を生む。量福は、小原四郎の養子となる。量豊は小泉権三郎の養子になる。
この「町尻量基」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(関連: ウィキポータル 軍事 - ウィキプロジェクト 軍事) |