甲子園高速フェリー
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甲子園フェリー(こうしえんふぇりー)とは、兵庫県西宮市と淡路島の志筑港(のちに津名港に変更)間を運行していた、1971年から運行を開始した常石造船系の甲子園高速フェリーと、日本道路公団が1987年に設立し共同運航行っていた西宮フェリーの総称、または甲子園高速フェリーの略称である。
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[編集] 沿革
航路開設当時は淡路フェリーボートが「あわしお」「みちしお」の2隻、甲子園高速フェリーが「第一はやぶさ」「第二はやぶさ」の2隻を建造して運行していたが、業績不振により淡路フェリーボートは西宮航路から撤退、淡路フェリー建造分の船を引き継ぎ、「第一はやぶさ」を海外売却して3隻体勢で1日15便を運行していた。
そんな西宮航路にも転機が訪れる。1987年に大鳴門橋が完成し、津名一ノ宮ICまで本四道路が開通したために淡路島が「離島」から「本四連絡の拠点」と変貌したのである。
これにあわせて1985年からフェリーを代替を行い、新造船「なるお」「しづき」「いくほ」が順次投入されていった。 また、大鳴門橋の開通による輸送需要の増加につき、日本道路公団と甲子園高速フェリーが共同で新会社の西宮フェリーを設立し「なるお」の同形船「あわじ」を建造、1日24便に増便される。
また、バブル景気により在阪企業各社が淡路島をリゾート開発すべく豪華なホテルなどを建設し始めたため、それに併せて「第五はやぶさ」の代替として阪神~淡路航路で最大の3700総トンを誇る豪華新造船「むこがわ」を投入した。 90年代前半は、本四道路の部分開通により西宮航路がまさに一番賑わった頃であった。
しかし、この好調も決して航路需要が安定軌道に乗ったというわけではなかった。 いずれ本四道路は明石まで全通してしまい、西宮航路は再び冬の時代がやってくる運命にあったのだ。
1998年4月、明石海峡大橋が完成、本四道路が徳島から明石まで全通した。 淡路フェリーボートは伝統ある航路を廃止、徳島阪神フェリーも廃止、ついに本四連絡のフェリー航路に終わりの時がやってきたのである。
そんな中で甲子園フェリーは「明石大橋開通後も運行を続けます!」と新聞広告を掲載し、なんとか航路を維持しようと努力した。「なるお」を係船し、1日20便に減便、乗用車の需要を確保するために同乗者の運賃を無料にするなど奇策を打って出た。しかし、業績は低迷し、乗船率は以前の30%まで落ち込んでしまった。高速道路の便利さに打ち勝つことなど到底出来なかったのである。
同年7月に、フェリーターミナルに航路廃止を知らせる張り紙が張られた。
そして1998年8月31日、西宮航路26年間の歴史に幕を閉じた。
[編集] その後の甲子園フェリー
その後、西宮フェリーは会社解散、甲子園高速フェリーは明石淡路フェリーに出資して淡路島の島民の足を守り、現在は業種転換して「甲子園運輸倉庫」と社名を改め、西宮フェリーターミナル跡地に倉庫を構えている。 2003年、東日本フェリーが経営難に陥った際、グループ会社の神原汽船と共同で前面支援が発表されたが、現在は提携が解消されている。
[編集] かつて運航していた船
- 第一はやぶさ →ギリシャに売却
- 第二はやぶさ →中国に売却
- 第三はやぶさ (旧「あわしお」)
- 第五はやぶさ (旧「みちしお」)
- なるお →ギリシャに売却
- しづき →インドネシアに売却
- いくほ →パナマに売却
- あわじ (西宮フェリー所有)
- むこがわ →ギリシャに売却