田村建顕
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田村 建顕(たむら たつあき)は、江戸時代の大名。陸奥岩沼藩の第2代藩主。陸奥一関藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 明暦2年5月8日(1656年6月30日) | |||
死没 | 宝永5年1月27日(1708年2月18日) | |||
別名 | 千勝(幼名) | |||
官位 | 従五位下、右京大夫、因幡守 | |||
藩 | 陸奥岩沼藩主、陸奥国一関藩主 | |||
氏族 | 田村氏 | |||
父母 | 父:田村宗良。母:山口重如の娘・貞厳院(糸) | |||
妻 | 正室:松平近栄の娘・繁 | |||
子 | 長女(田村誠顕の正室)、養子:田村誠顕 |
明暦2年(1656年)5月8日、岩沼藩の初代藩主・宗良の次男として生まれる。伊達政宗の曾孫に当たる。延宝6年(1678年)、父の死去により後を継ぐ。延宝9年(1681年)5月、岩沼から一関に移封された。建顕自身は学問に秀でていたため、時の将軍・徳川綱吉から特に寵愛されて、元禄4年(1691年)には外様大名でありながらにして譜代大名にしか許されない江戸城奥詰に任じられた。元禄5年(1692年)には奏者番に任じられ、元禄6年(1693年)には城主格となる。
元禄14年(1701年)3月13日、播磨赤穂藩主・浅野長矩による刃傷事件が起こった。いわゆる有名な「忠臣蔵」の始まりだが、このときに綱吉の命令で長矩の身柄を芝の江戸屋敷に預かり、そして屋敷の庭で切腹を務めさせたのが、この建顕であった。
宝永5年(1708年)1月27日に死去。享年53。後を婿養子の田村誠顕が継いだ。墓所は東京都港区高輪の禅寺。
- 田村氏(岩沼藩2代)藩主
- 1678~1681
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- 先代:
- 田村宗良
- 次代:
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- 田村氏(一関藩初代)藩主
- 1681~1708
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- 先代:
- 伊達宗勝
- 次代:
- 田村誠顕