田中喜左衛門
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田中喜左衛門権内(たなかきざえもんごんない)は江戸時代中期、伊予大洲藩砥部郷の大庄屋であるが、ここでは大森彦七盛長の供養塔建立を通して、田中権内に関して見えてくる事柄について記しておく(田中大庄屋家では代々喜左衛門を称していたが、時に誤って與左衛門などとされていることもある)
大森彦七供養塔とは、正徳二年(1712)に砥部郷内宮内村に建てられた石碑のことであるが、その碑文は見られることも少ないと思われるので、ここに記しておく。
正面 長盛院殿大森彦七居士神儀
台座左 伊予浮穴郡砥部庄茲田中氏権内居士蓋為先君故生敬慕之思勧群衆倶戮力
台座裏 彦七昔日就于花園地建塔以奉供養請銘日 超出六合 武勇大振 忠功正信
台座表 声莫不到 楠霊怪化 守剣悩身 終縁仏乗 自他離塵 麻山嗣法沙門 南堂光書
台座右 施主砥部麻生田中氏権内 大庄屋田中治兵衛等 勧化五本松小助川井忠左衛門
正徳二年壬辰臘月吉旦造立焉
ここにある田中治兵衛とは、権内の父のことであるが、ここには年代的な矛盾がある。
と云うのも、この大森彦七供養塔では正徳二年(1712)にはすでに大庄屋になっているが、「大洲領庄屋由来書」には、和田治兵衛が享保五年(1720)に佐礼谷村の庄屋となり、その後を嫡子に譲って砥部宮内村大庄屋の養子となったとあるからである。
勧化とは勧進のことである。
また一方、宮内村に残る田中権内の墓碑では、
黙翁道渕覚位 正徳癸巳三年(1713) 五十九歳
となっているが、この年を田中権内誕生の年としても死亡の年としても、下記のような他の諸資料とくらべて、また明らかな矛盾が出て来てしまう。治兵衛の記述でも明らかなように、このころの年代記録はまったく信頼できないようだ。
しかし、治兵衛がもともとは佐礼谷村の庄屋をしていたが、その後を嫡子に譲って砥部大庄屋の養子になったと言うことを考えると、逆に言うなら、若者ではなく、当時としてはかなりの年齢だったはずの治兵衛を、大庄屋家が養子として迎えたことを考えると、それは後を継がせることが目的だったからとは、とても考えられない。
そうではなくて治兵衛の手腕に頼り、記述のように年齢は確定できないが、まだ幼かった権内が成人するまでの間の後見と中継ぎをさせるためだったからとしか考えられない。
そんな関係から、治兵衛は、正当な田中大庄屋家の後継者は権内であると宣言しておかなくてはならず、そのために祖先を祭る塔の名目上の施主とした。あるいは権内自身が、自分こそが正当な後継者であると主張するために塔を建てたのであろうと考えられているのである。と云うのも、田中氏は大森彦七の子孫であると信じられていたからである。其のことに関しては伊予大森氏の項目を参照されたい。そして祖先を供養することは惣領の務めであると考えられていたからである。
そもそも庄屋達には様々な役得や負担免除などという特権が与えられていたが、当時様々に起こってきていた彼らに対する批判に抗するために、全国的に、自分達の立場に対して明確な理論化を求めるようになってきていた。その結果、彼らは支配の根源を歴史に求め、それが国学の隆盛に繋がっていったのであるが、そうした流れに乗って、田中家の行き着いた先が、大森彦七だったからである。
そしてもし其の通りだったとすれば、彦七供養塔を建てたころ権内は二十歳前後、以下にある砥部騒動のころには四十九歳前後、大庄屋株を売って隠居したのは、五十八歳前後であったろうと云うことになり、なんとなく年代的にすっきりと収まるのである。
その他の記録
田中喜左衛門権内は、元文五年(1740)に大庄屋として「大洲秘録」に出てくるので、其の頃までには大庄屋職を引き継いでいる。
寛保元年(1741)砥部騒動。この事件については別に項目があるので参照されたい。ただ当事者のはずであるのに、この騒動にあって何らかの働きをしたとは何処にも出てこない。まさしく戒名のように「黙翁」だったのである。
寛延三年(1750)田中権内、大庄屋株を売却する。大洲藩では惣庄屋と云う名で呼ばれるのが普通であり、大庄屋と云う名称は替地となる以前の松山藩での名称だった。大洲藩では田中家が唯一の大庄屋であったが、これで大庄屋と云う職名が絶えることになった。大洲藩の政策上か、大庄屋は他の惣庄屋達より一段低く扱われており、呼ばれるときにも「殿」がつけられなかったようである。