琴櫻傑將
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琴櫻 傑將(ことざくら まさかつ、1940年11月26日 - )は、鳥取県東伯郡(現在の倉吉市)出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲の横綱。本名・鎌谷紀雄(かまたに のりお)。身長182cm、体重150㎏。
[編集] 来歴
中学校時代、警察官である父から柔道を仕込まれ、本来中学生では取得を認められていない段位を特例で認めてもらうほどの腕前にまでなった。噂を聞きつけた佐渡ヶ嶽親方(小結・琴錦)に勧誘され、最初は反対されるもののどうにか了解を得て入門、1959年1月場所に初土俵を踏んだ。3ヶ月程残っていた高校は、特別に卒業扱いにさせてもらったという。
四股名は最初から琴櫻である。これは師匠・佐渡ヶ嶽の現役名・琴錦に故郷・倉吉市打吹公園が桜の名所であることからつけられたもの。番付では琴“櫻”と書かれ、琴“桜”と書かれたものは存在しないが、本人はサインなどでは常に琴“桜”と書いていたという。
最初はどうしても柔道の癖が取り口にも出たが、師匠の指導と兄弟子琴ヶ濵との稽古で右四ツの型を会得し、昭和42年(1967年)7月場所と9月場所に関脇で2場所連続の11勝4敗という成績を残し、大関となる。しかし負傷の多さから好不調の波が激しく、昭和43年(1968年)7月場所と昭和44年(1969年)3月場所の2度優勝(どちらも13勝2敗)したものの、負越しもあったために横綱になるのは無理だと思われていた。
しかし昭和47年(1972年)11月場所に14勝1敗で3度目の優勝、綱取りとなる昭和48年(1973年)1月場所も14勝1敗で連覇を果たし、見事53代横綱に昇進した。「姥桜の狂い咲き」と呼ばれた。大関在位32場所の長期在位で晴れて横綱になったが、32歳という高齢での昇進であり、後援会などから贈られた数多くの化粧回しを見て、こんなに長く務まるか不安だともらしたという。同年7月場所は14勝1敗、唯一負けた相手である北の富士との決定戦で勝ち、横綱に対する不安の声を一蹴した。しかしやはり長く務めることができず横綱在位は8場所(番付上は9場所)で、昭和49年(1974年)7月場所前に引退した。
引退後、年寄・白玉を襲名したが、まもなく師匠が死去したため昭和49年7月場所中に佐渡ヶ嶽を襲名して佐渡ヶ嶽部屋を継承した。番付面では〈白玉〉の記録は残らなかった。大関・琴風を筆頭に22人の関取を育て、幕内優勝力士は羽黒山の立浪親方、大ノ海の花籠親方、初代若乃花・貴ノ花の兄弟二代の二子山親方と並んで最多の4人を輩出した。
日本相撲協会内では理事として審判部長、名古屋場所部長を歴任、北の湖理事長1期目には協会No.2の事業部長の要職に就いた。
平成8年(1996年)には弟子の琴の若(当時)を婿養子として迎え入れた。平成12年(2000年)11月26日に還暦を無事に迎えたものの、還暦土俵入りは行われなかった。平成16年(2004年)、壊疽により左足を足首から切断。10ヶ月の入院生活を経て平成17年(2005年)2月に退院。手術の際には、弱っていた心臓が止まったこともあったが見事に乗り越えた。
平成17年11月場所中の11月25日を最後に、協会の事実上の定年退職を迎えた。千秋楽までは協会に残ることができたが、部屋持ちの親方が退職するとその部屋の力士が出場できなくなるので、同日に引退した娘婿の琴ノ若に年寄・佐渡ヶ嶽を譲り、奇しくも2代続けての本場所途中の部屋後継となった。なお、場所後行なわれた琴欧州の大関昇進伝達式では、協会の計らいにより同席が認められた。