牧口常三郎
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牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日 - 1944年11月18日)は、新潟県出身の地理学者・教育者。創価学会の創立者。
[編集] 人物
若くして北海道へ渡り、苦学の末に札幌の北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学)へ入学。人間の生活と地理との関係を論じた『人生地理学』を32歳で発刊。牧口は地理学者の志賀重昂に校正・批評を依頼し、志賀は同著に序文を寄せた。また同著は新渡戸稲造や柳田國男らの目に留まることになり、新渡戸宅で開催された「郷土会」にも牧口は名を連ねている。地理学者である牧口と民俗学者である柳田が共に研究・現地調査を行った記録も残されている。その一方で南朝天皇を正統として国民に新たな皇道を教育する目的で結成された大日本皇道立教会に参加し、秋月左都夫(オーストリア大使・読売新聞社長を歴任、後に学会顧問)の知遇を得る。その活動を機縁とし南朝の所縁がある北山本門寺を訪問し入門を志願するが、牧口の持論に宗内の秩序が乱れるとして入門を断られる。
大正8年、西町小学校校長時代に北海道から上京していた戸田城聖(後の創価学会第二代会長)が牧口を訪ね、牧口は戸田を同校の職員として採用する。大正11年白金尋常小学校に転勤。昭和3年に研心学園校長の三谷素啓から折伏を受け日蓮正宗に入信する。牧口は戸田を折伏し、戸田は牧口と時をほぼ同じくして入信する。
[編集] 創価教育学会創立
昭和5年には彼の教育理論の集大成である『創価教育学体系』を著し、「人生の目的は価値創造にある」という理念を唱えた。価値の対象として「美・利・善」を挙げ、カントの価値体系である「真・善・美」と一線を隔した。「真理は認識の対象であり価値の当体ではない。主体と客体の関係の中にこそ価値は存在する」として、カントの説く「真」の代わりに「利」の価値を説いた。創価学会ではこの『創価教育学体系』の発刊日である昭和5年11月18日を創立記念日としている。会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖の体制であった。「創価」という語が誕生したのはこの時であると言われている。同著は郷土会メンバーである新渡戸稲造・柳田國男や社会学者田辺寿利・教育関係者・文部大臣・警視総監・大審院判事等の各界から評価を受け、彼らを中心に「創価教育学支援会」が結成されるに至る。
[編集] 戦時中の弾圧と体制側との軋轢
牧口は戦時中、特高警察の監視がある中で国内各地において座談会を開催する。国策により伊勢神宮崇拝を求められ国家統制下に置かれた宗教界において、創価教育学会はその路線変更を拒み理念を貫いたとされる。日蓮正宗側からの神札を祀る提案も言下に拒否したと言われている。伊豆での座談会開催直後の昭和18年7月6日、治安維持法並びに不敬罪で下田署に逮捕・連行される。戸田城聖理事長も逮捕・投獄となった。牧口は獄中においても不退転を貫き、昭和19年11月18日に東京拘置所内病監で死去した。現在の学会では牧口が反戦・平和を訴えて国家神道への従属を拒んだとの解釈がされているが、実際は牧口は「神道では戦争に勝てない。仏法でなければならないのだ」とあくまでも主戦論を前提にした上での主張をしたという説が有力である。創価教育学会幹部逮捕者数は相当数いたが、不退転を貫いたのは牧口・戸田ともう一人の三人だけであった。 獄死した師の恩に報いるために、戸田はこのあと創価学会の拡大を進めていく。