牛島満
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牛島 満(うしじま みつる、1887年7月31日 - 1945年6月23日)は、日本陸軍の軍人で、陸軍大将。鹿児島県鹿児島市出身。沖縄戦において、第32軍を指揮し、自決した。温厚な性格で知られ、教育畑を歴任したが、歩兵第36旅団長として武漢、南京攻略に参加し、功績を上げるなど指揮官としても優れていた。
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[編集] 略歴
- 1908(明治41年) 陸軍士官学校卒業
- 1916(大正5年) 陸軍大学校卒業
- 1918(大正7年) シベリア出兵に参加
- 1933(昭和8年) 陸軍省高級副官
- 1936(昭和11年) 歩兵第1連隊長
- 1937(昭和12年) 歩兵第36旅団長
- 1939(昭和14年) 予科士官学校長兼戸山学校長
- 1941(昭和16年) 公主嶺戦車学校校長
- 1942(昭和17年)陸軍士官学校長
- 1944(昭和19年) 第32軍司令官
- 1945(昭和20年)
[編集] 沖縄戦
[編集] 牛島の評価
沖縄戦において、牛島は万事を長勇参謀長ら部下に一任し、自らは責任のみ負うとした。しかし、沖縄戦後半に作戦立案を一任した八原博通高級参謀は、作戦を巡ってしばしばほかの参謀と対立し、司令部に不協和音を生じる一因ともなった。また、大打撃を受けた5月4日の大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す要因となった首里撤退は、提案したのは長参謀長や八原高級参謀とはいえ、その判断は誤っていたとする指摘もある。
また、牛島個人としては、非戦闘員を北部に避難させるよう指示を出すなど、県民に犠牲が出ないよう配慮していたことが伺える。しかし、大本営が沖縄作戦を本土作戦のための時間稼ぎと考えており、牛島もこの方針に従い指揮していたことや、撤退の過程で県民に多数の犠牲を出したこと、牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったことから、沖縄県民からの彼の評価はかなり低い。だが、牛島を知る人は「軍人というより教育者」「怒らない優しい人柄」などと評価しているため、実際の人望はあったと言えるかもしれない。
[編集] 牛島の日課
彼は昔から戦場で用便を済ます癖があり、必ず見晴らしのいい場所などを選んでいたらしい。中国戦線では 用便中に中国軍の1個分隊が目の前に現れたが、その1個分隊を捕虜にしたというエピソードも残っている。