片平巧
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片平 巧(かたひら たくみ、1965年6月14日 - )は、日本のオートレース選手。埼玉県出身。19期、船橋オートレース場所属。
[編集] 略歴
- 1988年
- 1990年
- 11月6日、第22回日本選手権オートレース(山陽)で、秋田敬吾(5期、山陽オートレース場所属)、進藤敏彦(12期、山陽オートレース場所属、引退)、飯塚将光(9期、船橋オートレース場所属)に次ぎ史上4人目となる完全優勝。当時の競走車呼名は「クランツ」。競走タイムは3.351。
- 1991年
- 全国地区対抗戦オートレース(山陽オートレース場)A級優勝戦優勝。
- 1993年
- 1994年
- 1995年
- 同年の前期船橋A1となる。
- 1月31日、第9回スーパースター王座決定戦(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.384。
- 5月24日、SG第14回オールスターオートレース優勝。当時の競走車呼名は「Jキブロワイト」。競走タイムは3.395。
- 同年のオートレース表彰選手において、2年連続で最優秀選手賞を受賞。
- 1996年
- 同年の前期船橋A1となる。
- 2月13日、SG第9回全日本選抜オートレース(伊勢崎オートレース場)を優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.333。SG3冠達成。
- 3月6日、SG第10回スーパースター王座決定戦優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.361。
- 6月12日、SG第15回オールスターオートレース(浜松オートレース場)を優勝。
- 同年のオートレース表彰選手において、島田信廣と共に最優秀選手賞をダブル受賞。
- 1997年
- 1月29日、SG第11回スーパースター王座決定戦優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.335。
- 7月2日、開場32周年記念GI平成チャンピオンカップ(山陽オートレース場)優勝。
- 7月16日、SG第1回東西チャンピオンカップ(浜松オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「キブロワイト」。競走タイムは3.387。
- 同年の前期・後期ともに船橋A1となる。
- 同年のオートレース表彰選手において、特別賞受賞。
- この年、小林啓二(8期、山陽オートレース場所属)、高橋貢(22期、伊勢崎オートレース場所属)と共に年間最多優勝を飾る。
- 1998年
- 1999年
- 3月25日、GI開設47周年記念グランプリレース(川口オートレース場)優勝。
- 2000年
- 2001年
- 8月29日、GIダイヤモンドレース(飯塚オートレース場)優勝。
- 2006年
- 6月19日、プラスミックカップ争奪戦(船橋)で三年半ぶりの優勝を飾る。
[編集] イン高速走法の天才
片平巧はオートレース界きっての天才レーサーである。1985年にデビューし、4年後の第21回日本選手権オートレースでトラで準優勝を飾ると、翌年の第22回大会ではフジに乗り換え、史上4人目となる完全優勝を飾った。常にインコースを回りながらも速度を乗せるというイン高速走法、そして何より天性の物と言うべき捌きで瞬く間に全国区に名を連ねたのである。しかし、フジの振動によって腰痛を患い、その後はタイトルから遠ざかってしまった。
[編集] セアの申し子
1993年10月、オートレースの競走車が統一された。片平はこの統一規格車であるセアに驚くべき順応を見せる。乗り替わりから間もない11月に行われた第25回日本選手権オートレースにおいて復活の優勝を飾り、マスコミに「セアの申し子」と呼ばれるようになった。その後、片平は島田信廣(船橋オートレース場所属、引退)、岩田行雄(15期、船橋オートレース場所属)らと共に船橋最強軍団を、ひいてはオートレース界全体を引っ張る存在となる。
最強を誇った頃の片平の強さは最早常軌を逸しているとさえ言えるほどで、今では考えられない伝説の逸話は枚挙に暇が無いが、特に著名なのは、SG第11回スーパースター王座決定戦での「事件」であろう。中村政信を始めとする強豪が0メートルハンデに並ぶ中、片平はただ一人10メートルのハンデを背負った。SGの優勝戦では余程の実力差が無い限り(例えば、1級車に乗り替わったばかりの新人選手が優出した場合など)、大概オープンレースで行われるという掟が半ば不文律としてあった。従って、このハンデ構成は常識的に考えればありえないことだが、当時の片平にはこれでも妥当なハンデとは言えなかったのかも知れない。結果片平は怒涛の7人抜きを決め、見事にスーパースター王座決定戦3連覇を達成したのだ。そして、1998年12月にSG第2回オートレースグランプリを制覇し、廃止された東西チャンピオンカップも含めて史上ただ一人のSG6冠全冠制覇を成し遂げたのである。その後は不振が続いたが、2006年6月に実に3年半ぶりの優勝を地元船橋オートレース場で、それもGIの決勝並みのメンバーと戦って飾った。「オートの神様」広瀬登喜夫、「ミスター・オート」飯塚将光に並ぶオートレース界のカリスマとして今もなおファンは多い。
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