溝口直諒
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溝口 直諒(みぞぐち なおあき、寛政11年1月8日(1799年2月12日) - 安政5年6月18日(1858年7月28日))は江戸時代の大名。越後国新発田藩の第10代藩主。9代藩主溝口直侯の長男。幼名は駒之助。官位は従五位下伯耆守。のち同じ伯耆守の松平宗発が老中となったことから信濃守に改め、さらにのち再び伯耆守に復す。母は直侯の側室で家臣堀源之進行正の娘里代(窈樹院)。正室は安芸広島藩主浅野斉賢の娘歌姫(見明院)。
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[編集] 経歴
寛政11年(1799年)江戸にて誕生。享和2年(1802年)に父の死去により家督を継ぐ。時に数え年4歳と幼少であったため、父の時の例に従い親族の松平信明が後見を行った。文化10年(1813年)より自ら政治を行い、翌11年(1814年)には徳川家斉にはじめて拝謁し、同年従五位下伯耆守に叙任。文政6年(1823年)には越後国蒲原郡の幕府領8000石余を預けられる。同11年(1828年)にはさらに2000石余、同13年(1830年)にもさらに2000石余を預けられる。同年には陸奥国の飛び領1万3000石余が越後国蒲原郡の内に復した。天保9年8月5日(1838年9月23日)、家督を長男の溝口直溥に譲って隠居。安政5年6月18日(1858年7月28日)、江戸において60歳で歿。法号は見竜院殿徳巌寿松大居士。江戸駒込の吉祥寺に葬る。
[編集] 子女
直諒には十二男十五女があった。以下には早世した者をのぞき成人した者のみをあげる。
- 長男錦之助は家督を継ぎ11代藩主溝口直溥となる。
- 六男虎吉は溝口右京直與と称し、のち伊勢神戸藩主本多忠都(忠廉)の養子として縁組みが整い本多忠穆の名まで決まるが、養家に引っ越す前に死去。
- 三女菊姫ははじめ肥前大村藩主大村純顕の室となるが離縁。のち豊姫と改め日向延岡藩主内藤政義の室となった。
- 五女重姫は信濃松本藩主松平(戸田)光則の室となる。
[編集] 治世・人物
直諒の治世には、文化5年(1808年)の砲術心得の者の佐渡派遣や同7年(1810年)の佐渡警備をはじめとした、異国船到来に伴う海防関係の経費が嵩み、前代の陸奥国との高替え以来窮迫の度を加えた藩財政はさらに悪化した。これに対し直諒は自ら徹底した財政改革を指示したが、城下の大火や三条地震など天災が集中したこともあり大きな成果はあがらなかった。さらに天保の飢饉にも見舞われ、当時成長しつつあった領内の大地主や豪商に依存することで危機を凌いだ。
直諒は父に引き続き好学の大名として知られた。江戸に講堂を設け、国元の藩校も直諒の治世に大きく充実した。隠居後は「健斎」または「退翁」と号して学問論や海防論・勤王論などの分野で著書を執筆し、尊王開国論の論陣を張った。また茶の湯にも傾倒し、茶道の宗匠となって「翠濤」と号し、石州流怡渓派から一派を起こして越後怡渓派と称した。[1]
[編集] 注
- ↑ 以上この節の典拠は『新発田市史』上巻