源重成
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源重成(みなもと の しげなり、天承元年(1131年) - 平治元年(1159年)12月)は平安時代の武将。八島冠者・佐渡源太源重実の三男。母は勾当大夫宗成の娘。佐渡式部大夫と号す。佐渡重成とも。兄に二郎先生源重忠、弟に筑後守であった山田先生源重貞、正四位下鎮守府将軍源義家の婿で信濃守であった浦野四郎源重遠らがいる。官位は式部丞を経て昇殿従五位下近江守。
[編集] 系統・系譜
清和天皇-貞純親王-源経基-満政-忠重-定宗-重宗-重実-重成
[編集] 経歴
天承元年(1131年)には大炊助。永治2年(1142年)に兵部少丞。保元元年(1156年)7月、保元の乱で後白河天皇方で源義朝と行動をともにする。従五位下式部丞に昇進し、式部大夫を称す。乱の後、捕らえられた敵方の崇徳上皇を仁和寺から鳥羽付近まで護送した。
平治元年(1159年)12月、平治の乱においても義朝の麾下に参加。この時は義朝軍が一時拘束した後白河上皇を護送し、さきの崇徳上皇の例と合わせて「二代の上皇を護送した」として世上大きな話題になった。
しかし平清盛軍の前に敗走し、義朝とともに僅かな人数で東国を目指して落ち延びる。途中、美濃国にて落武者狩りの一団に遭遇した際、義朝を逃した上で「我こそは源義朝なり」と名乗って自決した。その際に、身元が割れないようにするべく、自ら散々に顔面を傷つけた上で果てたという。