海老原博幸
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海老原 博幸(えびはら ひろゆき、1940年3月26日 - 1991年4月20日)は、東京都出身の元プロボクサー。統一世界フライ級チャンピオン。左利きのボクサースタイルの強打者。同じ階級のファイティング原田、青木勝利とともに「フライ級三羽烏」と呼ばれた。
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[編集] ボクシングとの出会い
ボクシングとの出会いは「神話的」真実から始まっている。10代の海老原は目黒のトンカツ屋で出前のアルバイトを募集していたため面接にいくと、いかつい顔の店主がじっと彼の体、特に足を見て「縄跳びしてみろ」と言ってくる。何の意味があるのか判らなかったものの、とにかくバイトで金を稼ぎたかった海老原は店主の言うままにジャンプやダッシュを繰り返した。この親父は面接の後すぐに店を畳んでいる。この店主、実は、豪傑で名高いライオン野口(岩田愛之助系の国士でもある)の高弟で、目黒ジムの四天王と呼ばれたファイター型のボクサーだったのだが、ボクサーを辞めてマネージャーとなるとヤクザにタカラれる毎日でホトホト嫌気がさしたので『堅気になろう』と心機一転「とんかつ屋」を開いたばかりであった。新規に出前のアルバイトを募集したところやって来たのが海老原少年という話。そして、いうまでもなくこの店主が後に8人の世界チャンピオンを誕生させた金平正紀(故人)なのである。これは金平と親交のあった安部譲二の証言であるがこの説はあまりにドラマチックであり、実際は面接にきた坊やと金平が世間話をはじめたのが始まりという説もある。ともかく運命の出会いを果たした二人は、菓子折りを手に方々のジムを借り練習を始め、馬小屋を改造したささやかなジムを拠点とした。これが海老原の栄光と協栄ジムの歴史の始まりである。
[編集] カミソリ・パンチ
同時期のライバルであり、後に親友となるファイティング原田(新人王戦で両者は対決し、原田の判定勝ち)が「海老原は天才だった」と言うようにボクサーとしてのセンスはずば抜けていた。天性のリズムと絶妙のタイミングから放たれる強打は、「カミソリパンチ」と称され切れ味抜群であった。精神力も凄まじく、数々の世界王者を育てた名トレーナー、エディ・タウンゼントも「一番ガッツがあったのは海老原だった」と語るほどである。パンチを紙一重でかわし、カミソリパンチでKOの山を築くという、努力型の原田とは正反対の天才的なボクサーであった。 しかしそのハードパンチが故、ボクサーとしては致命傷といえる7度の拳の骨折を経験した。骨折した拳に打ち込んだ麻酔が試合途中で切れ、激痛をこらえて戦ったこともあったという。
引退後は酒に溺れ、肝機能障害であまりにも早い人生を終えた。原田は「俺は親の葬式でも泣かなかったが、海老原が死んだ時は泣きまくった」と大ショックを受けた。あまりにも勢いよく輝き、自由奔放に生き、そしてあまりにも早く逝ってしまった。まるで巨大な花火のようなその生き様は、ボクシングの経歴同様、波乱万丈であった。
[編集] 主な戦績
- 1959年プロデビュー。
- 1961年~1963年まで32連勝(21KO)を記録。
- 1963年9月、統一世界フライ級王座初挑戦。ファイティング原田を大いに苦しめたポーン・キングピッチ(タイ)をわずか1R、電光石火のKO勝ちで世界王座を奪取する。海老原の強打に足が痙攣したポーンは、頭をもたげたまま立ち上がることなく10カウントを聞いた。
- 1964年1月23日、バンコクで行われた初防衛戦となるポーンとのリターンマッチに敗れ王座陥落。(この試合では拳を痛めていたうえに、ひどい地元判定だったといわれる。)
- 1969年3月30日、前王者ホラシオ・アカバロ(アルゼンチン)が返上したWBA世界フライ級タイトルを王座決定戦にてホセ・セベリノ(ブラジル)に判定勝ちし再度王座を獲得する。
- 1969年10月19日、バーナベ・ビカランポ(フィリピン)に15回判定負けを喫し、またも初防衛に失敗する。
- 1970年1月引退。
最終成績66勝36KO5敗1分
- 1991年4月20日、死去。享年51。