浜松まつり
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浜松まつり(はままつまつり)は、静岡県浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日から5月5日までの三日間にわたり開催される凧揚合戦と、同時に市内各地で行われる各種イベントを合わせた恒例行事のこと。昔(1960年代頃)は、5月1日~5月5日の5日間行われていた。
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[編集] 概要
- 凧揚合戦は町単位で参加し、その町に誕生した子供(初子)の誕生を祝って、それぞれの町紋(凧印)に子供の名前と家紋を書き入れた大凧(初凧)を揚げ、町同士で凧糸を切り合って競う。
- 夜には御殿屋台の引き回しと初練りが行われる(後述)。
- 「まつり」と名が付いているものの、特定の神社仏閣の祭礼ではない。但し、地元の神社での安全祈願の為の参拝や、組長の持つ提灯と御殿屋台に御幣を飾る等の神事は習慣として行われる。
[編集] 起源・歴史
- これまでその起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった飯尾豊前守の長男・義廣公の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義廣公の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であることがわかっている。
- 現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現浜松市有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記に、寛政元年(1789年)4月に凧を購入したという記述が確認されている。
- 江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく遠州地方全域で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた。
- 明治に入り庶民の娯楽が多様化すると、初凧の習俗は「古くさいもの」として次第に行なわれなくなってしまうが、浜松の城下町では初凧に糸切合戦の要素が加わりそれが人々を熱狂させ今日まで続くに至る。
- 明治20年頃、浜松の職人町に町火消が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。町火消単位で凧合戦に参加していたことを直接確かめる資料は見つかっていないが、町火消の影響は、参加各町を町名ではなく頭文字と組で表すことや、古くから参加している町の凧印には纏を図案化したものが多いことからも伺える。
- この頃数組以上が集まって凧合戦が行われていた場所として田町の大安寺・法雲寺、北寺島町の機関庫建設予定地、新川端から馬込川端、伊場の鉄道工場建設予定地などがあったが大正7年からは和地山の練兵場に一本化されて行われた。第二次世界大戦による一時中断の後、昭和23年に会場を一時的に中田島に移し、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が、50か町余の参加を得て開催された。
- 戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線にさらに拍車がかかることになった。長い間、市内中心部の五十町余のみによって行われていた祭りだったが、昭和50年に行政の後押しにより卸本町が途中参加すると、以降毎年のように参加町が増え、わずか30年の間に112町も参加町が増加した。これにより参加者が激増し、全国で5指の人出数を誇る祭りとなったが、急激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現実は浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。
[編集] 大凧
- 浜松まつりで使用する凧の大きさは、2帖から10帖までで、4帖から6帖が最も凧合戦に適しているといわれる。1帖は美濃判(9寸×1尺3寸=273mm×393mm)12枚で1.28m2であるため、4帖は48枚で2.4m四方、6帖では72枚で2.9m四方。8帖になると96枚貼りでおよそ3.25メートル四方となる。形は正方形で骨組みは細かく丈夫に作られ、中心から大きく尾骨が突き出ている。凧に描かれる印は各町によって異なり、町名の頭文字や町内の伝説に由来する絵柄などがある。
[編集] 初練り・激練り
- 夜になると初凧を揚げた家からその町の男女に振る舞い酒が出され、盛大にお祝いを行う。この時、規則正しく整列をして進軍ラッパや太鼓のリズムと掛け声に合わせて摺り足で練り歩くことを「初練り」といい、またその練りが家の前や施主・初子のまわりでもみくちゃになって熱狂的に荒々しく騒ぐことを「激練り」という。商店や会社、祭りの役員宅などで行うこともある。
- 「激練り」は10年ほど前から使われるようになった言葉で、市中心部の古くから参加している町ではあまり使われない。
[編集] 御殿屋台
- 御殿屋台(ごてんやたい)とは、豪華な彫刻や幕などで装飾された祭車・山車のことで、浜松では御殿屋台または単に屋台と呼ぶ。その昔、凧揚げから帰る若衆を迎えるために、底抜け屋台を造って練り歩いたのが始まりと言われている。その後、見事な彫刻が施された御殿屋台が出現するようになっていった。その内では化粧をした子供達を中心に三味線や笛を用いたお囃子(おはやし)が奏でられる。
- 御殿屋台は市中心部および各町内で引き回され、それぞれに趣向をこらした絢爛豪華な彫物や堤灯の飾り付けが見る者を魅了する。
- 2005年の浜松まつりには、79町が市中心部での御殿屋台引き回しに参加した。
[編集] 問題点
[編集] 肥大化の弊害とまつりの変容
- 伝統的な凧糸の切り合いの技が見られないようになっている。今でも公式サイトやパンフレットには「チョン掛け」「釣り上げ」といった技の解説が掲載されているが、今日においてそれらの技を見ることはない。これは戦前から参加している町においても技術の継承が困難になってきていることと、祭りの参加町数が過去30年の間に3倍近くまで膨張し、技術そのものを持っていない町が増えたためだけでなく、会場である中田島海浜公園(通称「凧場(たこば)」)が手狭になってきているためでもある。
- 肥大化による弊害は夜の屋台引き回し・初練りでも顕著で、近年浜松まつりの屋台ではない秋季に市内各地で行われる収穫祭の太鼓屋台を引き回す町や、遠方から夜間輸送をしてまで中央に屋台を持ってくるような町が現れたことで、古くから参加している市中心部の町が場所・時間の制約を受け、本来有るべき姿の屋台引き回しが出来ない状況にあり、さらに後の初練りの運行にも支障をきたしている。元来凧と屋台と初練りが浜松まつりの根本であったにもかかわらず、それらの祭の趣旨から外れたイベントが増え、祭り本来の姿が崩れ始めている。郊外の町の練り隊がバスで市中心部の繁華街に入って5ー10町ずつ交代で大行列を作る「合同練り」(鍛冶町大行列とも言われる)が定着している。浜松市の提案で始められた「子供ラッパ行列」など、まつりの本筋とはまったく関係のない行事に多くの子供を派遣する町も増え、まつりの継承者であるはずの子供でさえ「浜松まつり」が何のまつりであるかを知らないという状況になっている(「子供ラッパ行列」については2006年に中止された)。
- これらの問題から古くから参加する町は、戦後参加した町を新参町などと呼び一方的に疎外する風潮が見受けられる。
[編集] 参加者のマナー
- 前述のように本来の姿を見失いつつある近年の「浜松まつり」は、その参加者の多くにとって大勢で飲み食いできて深夜までバカ騒ぎできる場としか思われていない。ハメを外しすぎてルールに従えない行動に出る者が非常に多く、マナー・礼儀が全体的に欠けている。なお、これは特に「練り」において顕著に見られ、深夜のラッパや笛、騒ぎ声などの騒音被害を含めて度々問題提起されているが解決の兆しは見られない。
- これらの原因の一つとして施主側の見栄の張りすぎた接待もあるとされる。本来は凧の付属的な扱いであるはずが、華美すぎる飲食・演出とそれに群がる参加者について、またそれを招き易い参加方法などについては今後の改善すべき課題である。
[編集] まつりの伝統
- 前述の通り「浜松まつり」の起源は『浜松城記』にある通りとされ、現在も多くの市民がそれを信じているが、近年これが偽書である疑いが強くなった経緯があり、それまで信じられてきた伝統や起源が否定されかけている。これにより、浜松まつりの定義そのものがあやふやになってしまっている様子が見受けられる。
- 詳細は浜松城記を参照のこと。
- 遠州の伝統行事本来の姿(凧合戦・屋台・初節句)としての浜松まつりを取り戻すべきではないかとの声が旧来からの参加者を中心に揚がっている。