浅野長友
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浅野 長友(あさの ながとも、寛永20年(1643年) - 延宝3年1月26日(1675年2月20日))は、播磨赤穂藩の第2代藩主。父は初代藩主・浅野長直(長友は長男)。母は丹羽長重の娘。正室は内藤忠政の娘。子には浅野長矩、浅野長広(大学)がいる。官位は従五位下。采女正。
幼名は又一郎。1657年に任官する。1671年3月5日、父の隠居により後を継いだ。このとき、父の命令で5万3000石の所領のうち、3500石を義兄の浅野長賢に、新田3000石を浅野長恒にそれぞれ分与したため、赤穂藩は5万石となる。1672年、国許に入って藩政を執り始めるが、1675年正月26日、33歳の若さでこの世を去った。墓所:赤穂市の花岳寺。
彼の後は、忠臣蔵で有名な息子の浅野長矩が幼少で継いだ。長友の早すぎる死も、後の長矩暴走の遠因と言えるかもしれない。
- 浅野家第2代赤穂藩主
- 1671~1675
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- 先代:
- 浅野長直
- 次代:
- 浅野長矩