津野親忠
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津野 親忠(つの ちかただ、元亀3年(1572年) - 慶長5年(1600年))は長宗我部元親の三男。
土佐一条氏の家臣であった津野勝興の養子となる。1585年の四国征伐で父が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとへ人質として送られる。1586年、兄の長宗我部信親が戦死すると家督相続争いに巻き込まれ、家臣の久武親直の讒言や藤堂高虎と親しかったこともあって父に嫌われ、幽閉されてしまう。
1600年、弟の長宗我部盛親が西軍に与して敗れた後、井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し、本領安堵をしてもらうように取り付けようとしたが、家臣の久武親直が、親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている、と讒言したために、弟によって殺害されてしまった。
親忠を殺したことを、後に盛親は「兄殺し」として家康に咎められ、長宗我部氏改易の原因となってしまった。