波多野氏
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出自については諸説ある。一説に相模波多野庄に住んだ藤原秀郷の後裔の波多野義通を祖とする。また一説には因幡国八上郡田公氏の族とする。
波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属する。勝元の死後、政元から丹波国多紀郡を与えらる。以後、一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばした。
秀長の子で名将・波多野稙通が、永正12年(1515年)朝治山に八上城を築城。ここを本拠とし、守護代である内藤氏を討ち、さらに近隣の細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たした。しかし、稙通の子・波多野晴通が暗愚であったため、波多野氏は三好氏の侵攻で衰退していき、最終的には松永久秀に攻められて、服属することを余儀なくされた。
晴通の養子・波多野秀治は三好氏の勢力が衰えると再び独立し、永禄9年(1566年)八上城を奪回する。永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際、赤井直正とともに信長に一度は降伏する。しかしその後、将軍足利義昭と信長の不和により、信長包囲網の一角として荻野氏・赤井氏の丹波国衆と共に信長と敵対する。しかし、天正3年(1575年)頃から信長の命を受けた明智光秀率いる織田軍の猛攻を受けることになり、一時はこれを撃退したものの、天正7年(1579年)、遂に降伏した。その後、秀治は弟の波多野秀尚とともに信長によって処刑され、戦国大名波多野氏は滅び去った。
明治期以降、一族から優れた人材を輩出している。第一次桂内閣で司法大臣、第二次大隈内閣などで宮内大臣を歴任した波多野敬直は波多野宗高の流れを汲む直系子孫である。
[編集] 波多野氏
- 当主
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 波多野秀長 波多野秀綱 ┣━━━━┳━━━━┓ ┃ 稙通 柳本賢治 香西元盛 秀高 ┣━━┓ ┃ 晴通 娘━三好長慶 宗高 ┣━━┳━━┳━━┓ ┃ 秀治 秀尚 秀香 娘━別所長治 宗長
[編集] 波多野氏関連人物
波多野一族
- 細川政賢
- 細川尹賢
- 赤井時家
- 赤井家清
- 赤井直正「赤鬼」
籾井氏
- 籾井教業「青鬼」
荒木氏
- 荒木氏綱