内藤国貞
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内藤 国貞(ないとう くにさだ、? - 天文22年(1553年))は戦国時代の武将。内藤貞正の子。備前守。丹波守護代。
丹波内藤氏は代々丹波守護の細川氏に仕え、守護代を務めていた。国貞の代は当初細川高国に仕えていたが、波多野氏など有力国人豪族と手を組みこれに反抗した。高国が没落し阿波出身の細川晴元が台頭するとこれに引き続き反抗、追討を受けた。晴元と三好長慶が対立すると三好氏方につき、独立した。しかし、1553年、丹波で勢力を伸ばしてきた波多野氏に対し、三好氏と組んで攻め込んだものの敗れ、国貞は戦死する。
その後内藤氏の居城八木城も落とされるが、三好方の松永長頼が奪還している。長頼は国貞の娘を娶って内藤家の名跡を継ぎ、内藤宗勝と称し、一時的に内藤氏の勢力を盛り返したがやがて宗勝も敗れ没落していった。なお、宗勝と国貞娘との子がキリシタンとして著名な貞勝(如安)であるとされる。