波多野秀治
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波多野秀治(はたのひではる、天文10年(1541年) - 天正7年6月2日(1579年6月25日))は波多野晴通の嫡男。波多野氏の当主。
晴通の子だが、なぜか一族の波多野元秀の養子となったという。波多野氏は秀治の祖父・波多野稙通の死後から三好長慶に服属していたため、秀治は最初は三好氏の家臣であったという。そのためか、正親町天皇の即位式のとき、列席していたという。
だが、長慶死後の1565年、秀治は居城の八上城を奪還し、大名として独立、播磨の別所長治を娘婿(妹婿とも)として同盟を結んだ。
しかしその後、織田信長の命令を受けた明智光秀軍の攻撃を受けるようになる。一時は信長に降伏したが、1576年に再び反旗を翻した。これに激怒した信長は、光秀に命じて再度の丹波侵攻を命じた。しかし秀治は籠城することによって、光秀の攻撃を3年にもわたって耐え抜いたが、籠城戦に不満を抱いた家臣の裏切りによって織田軍に引き渡され、信長により処刑された。秀治の死により、波多野氏は完全に滅亡した。
辞世の句は「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」