籾井教業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
籾井 教業(もみい のりなり、大永7年(1527年) - 天正4年(1576年))は、戦国時代の丹波国の武将。「丹波の赤鬼」こと赤井直正と並んで武勇に優れたため、「青鬼」と呼ばれたというが、実在には疑問もある。
籾井氏は16世紀に丹波国多紀郡の篠山盆地に割拠した新興の豪族で、居城の籾井城(現在の篠山市域)は古代・中世に京都から丹波を経て山陰地方に向かう山陰道が篠山盆地に差し掛かる箇所にあたる要衝であった。教業は篠山盆地の中心を抑える八上城(篠山市域)の波多野氏と姻戚関係にあり、その旗下の武将としてともに足利義昭に仕えた。
1575年、義昭を追放して自身に反抗する丹波の諸将の討伐に取り掛かった織田信長は、明智光秀に命じて丹波の経略に取り掛からせた。丹波への入り口にあたる籾井城は明智勢の猛攻を受け、翌年秋に陥落、籾井氏は没落した。最後の籾井城主は籾井綱利で、当時まだ20代の若さであった。
これに対し、一般に流布したところによると、最後の籾井城主は籾井教業といい、青鬼と呼ばれた勇猛な武将であった。そして彼は、明智光秀ではなく羽柴秀吉によって籾井城を攻撃されて、落城、戦死したというのだが、この話は江戸時代に民間で生き延びた波多野氏、籾井氏の旧臣の子孫が書き残したという『籾井家日記』などの野史によるもので、すべてを史実と受けとることは難しいとされている。