毛利季光
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毛利 季光(もうり すえみつ 建仁2年(1202年) - 宝治元年6月5日(1247年7月8日))は鎌倉時代の武将。大江広元の四男。広元の遺領から相模国愛甲郡毛利庄を受け継ぎ、毛利を苗字とした。正式な名のりは大江季光(おおえ・の・すえみつ)。
三代将軍源実朝に仕え、鶴岡八幡社参行列では前駆に加わった。実朝の死後出家。入道西阿と称した。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、北条泰時に従って美濃国や山城国などで後鳥羽上皇と呼応する勢力と戦い、活躍した。この功によって安芸国吉田荘の地頭職を与えられた。
天福元年(1233年)には時の執権北条泰時から関東評定衆に任命される。
だが宝治元年(1247年)、鎌倉幕府に謀反を起こした妻の兄である三浦泰村に付き敗北(宝治合戦)。鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光・師雄らと共に自刃した。毛利一族はこれによって大半が果ててしまったが、越後国にいた四男の毛利経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫が安芸国吉田荘の国人領主から一躍戦国時代に中国地方の覇者となる毛利元就である。