歴史の終わり
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『歴史の終わり』 (れきしのおわり, The End of History and the Last Man, Francis Fukuyama,Free Press, 1992)は、アメリカの政治経済学者フランシス・フクヤマの著作。三笠書房の翻訳版のタイトルは「歴史の終わり」だが歴史の終焉として言及されることも多い。
[編集] 概要
「歴史の終了」とは、国際社会においてリベラルな民主主義と資本主義が最終的な勝利をおさめ、それ以上の社会制度の発展が終わり、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという、将来における仮説である。戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる、それゆえ、この時代を「歴史の終了」とよぶ。
ベルリンの壁崩壊を受けて冷戦が終了し、「悪の帝国」であったソ連の崩壊と自由主義の盟主であったアメリカの勝利という経験をうけた議論であり、アメリカ的な自由を流布することが歴史の目的であるとするアメリカ的な歴史観を端的に示した議論でもある。又、ベルリンの壁崩壊、冷戦の終了、ソ連の崩壊という歴史と価値観の大転換を受けた歴史学の混乱も示している。
フクヤマはそれまで共産主義の正当化に使われてきたヘーゲル哲学をリベラルな民主主義、資本主義の正当化のために用いた。
[編集] 論争
これに対する異論は多くサミュエル・ハンチントンは著書「文明の衝突」の中で「支配的な文明は人類の政治の形態を決定するが、持続はしない」とし「歴史は終わらない」と主張した。
フクヤマの『歴史の終わり』は、ヘーゲル、マルクス、ニーチェの歴史哲学について論じたものである。 フクヤマはヘーゲルのコジェーブ解釈を利用し、マルクスとニーチェの歴史哲学を批判する。
マルクスは歴史の発展は、経済的な階級対立にあると主張したが、フクヤマはむしろ精神的な優越願望・対等願望の対立によって生じると主張する。いわゆる出身や人種、性別による差別がなくなれば(それは法制度的には男女普通選挙制によって達成される)、もはや歴史を発展させる要素はなくなる。必ずしも、経済的な平等を達成する必要はない。 また、ニーチェは永劫回帰説を唱え、歴史の進歩という概念そのものを西洋的、キリスト教的だとして否定したが、フクヤマは、民主主義の普及は不可逆的な要素であり、じゅうぶん進歩と呼びうると主張する。民主主義のない中世以前と、民主主義の発達した現代、どちらがいいかと尋ねたら、大半の人間は現代と答えるだろう。
フクヤマの歴史終焉論は、現象面としてみたら、戦争や暴力革命による国家興亡史の終わりである。 歴史上多くの国家は、戦争によって興り、戦争によって滅んだ。 しかし、成熟した民主主義国家は、戦争によって滅ぶことはない。偶発的な核戦争や、大災害で、機能不全に陥ることがあっても、数世代のうちに民主体制は復活するだろう。もはや、それに変わりうる政治体制は存在しないのだから。 もちろん、将来、世界政府が誕生して、現在の民主国家が一州や一県になるということはある。しかし、その統一の過程で、民主国家同士の正規軍の交戦は起こりえない。
よく、「歴史の終わり」の批判として、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」が挙げられるが、文明の衝突論と歴史終焉論はもともと思考軸が違う。 文明による価値観の違いが衝突を生むということはじゅうぶんありえるだろう。 しかし、その文明の衝突を回避する唯一の方法は、リベラルな民主主義の普及のみである。 発展途上国の宗教戦争や民族紛争は、民主主義理念の普及が不十分だから、起こるのである。
フクヤマ自身、文明の衝突論が、自分の歴史終焉論を批判するものだとは思っていない。