武田信縄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武田 信縄(たけだ のぶつな、1471年(文明3年)? - 1507年3月27日(永正4年2月14日))は、戦国時代の武将。甲斐国の戦国大名。甲斐武田氏の第17代当主。第16代当主・武田信昌の子(母は跡部明海の養女と伝わる)。武田信虎、勝沼信友、女子(小山田信有(越中守)妻)、女子(穴山信友妻)の父。五郎。左京大夫。陸奥守。従四位下。
1491年、父の隠居により家督を継いだ。しかし父は信縄の異母弟・武田信恵を後継ぎに望んでおり、やがて信縄と信昌・信恵の間で争いが起こる。甲斐に侵攻してきた伊勢長氏に対抗するために一時は和睦するものの、のち和睦は破綻し、再び干戈を交えることとなる。しかし1505年に父・信昌が死去すると一転して優位に立ち、自身の家督の座を完全なるものとした。しかし生来から病弱だったらしく、父の後を追うように永正4年(1507年)2月14日に病死。後を子の武田信虎が継いだ。
信縄が父の信昌に疎まれたのは、信縄が病弱であったことと、生母が信昌の旧敵の跡部氏の娘であったこと、信恵の母の実家である小山田氏との関係を重視したため、などが理由として挙げられる。