武田信昌
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武田 信昌(たけだ のぶまさ、1447年(文安4年) - 1505年10月13日(永正2年9月16日))は、室町時代後期(戦国時代)の武将。甲斐国の守護大名、戦国大名。甲斐武田氏の第16代当主。第15代当主・武田信守の子。武田信縄、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、女子(小笠原清宗妻)の父(他に諸角昌清の父とも)。五郎、刑部大輔、従五位下。落合殿。
元々、父に統治能力が無く、信昌も若年で家督を継いだため、武田氏は家臣の跡部氏の専横を許していた。しかし信昌は跡部明海の死後、信濃国の諏訪氏の援助を受けて明海の子の跡部景家を滅ぼすことに成功し、武田氏の実権を取り戻した。
1467年から応仁の乱が始まると、甲斐国は信濃国の豪族達の侵攻を受けたが、信昌はこれを全て撃退し、逆に武田氏の甲斐における地位を不動のものとした。
晩年の1492年には子の武田信縄に家督を譲って隠居したが、やがて病弱な信縄を嫌い武田信恵(信縄の弟)に家督を譲りたいと思い始め、信縄と彼を支持する国人達と甲斐を二分する抗争を始めた。のち、甲斐の混乱に乗じ侵攻してきた伊勢長氏の介入に対抗するため一旦は和睦したが、再度信縄と抗争している最中の1505年に死去した。法名は永昌院殿傑山勝公大禅定門。