小山田信有
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小山田 信有(おやまだ のぶあり、長享2年(1488年) - 天文10年(1541年))は甲斐の郡内地方(甲斐東部)の有力国人小山田氏当主。孫三郎。越中守を称した。父(又は兄)は小山田信隆。出羽守を称した小山田信有の父。小山田信茂は孫。桓武平氏。秩父党の末裔。
1508年に、先代当主の信隆は油川信恵側に加担したが、武田信虎との戦いで戦死した為に家督を継いだ。 一時、北条氏の下に逃れたが、後に信恵派の生き残りの工藤虎豊らと共に武田氏に帰参。1511年には信虎の妹と縁組し、以後は一門衆として遇された。隣国の駿河今川氏・相模北条氏とはその後も度々、争った。 1541年、没。
小山田 信有(おやまだ のぶあり、永正16年(1519年) - 天文21年(1552年))は甲斐の郡内地方(甲斐東部)の有力国人小山田氏当主。出羽守を称した。越中守を称した小山田信有の子。小山田信茂の父。桓武平氏。秩父党の末裔。
祖父(又は伯父)の小山田信隆や父の越中守信有は武田信虎と幾度となく争ったが、後に姻戚関係を結び、臣従。以後、小山田氏は武田家の一門衆として厚遇された。
出羽守信有は智勇に優れ、武田信玄(当時は晴信)の信濃攻めで笠原清繁の未亡人を与えられるなどいくつもの軍功を挙げたが、1550年の村上義清との戦い(砥石崩れ)で大敗。重傷を負い、それが元で1552年に死亡。葬儀には多くの人が参列したという。