武田信吉
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 | |||
生誕 | 天正11年9月3日(1583年10月18日) | |||
死没 | 慶長8年9月11日(1603年10月15日) | |||
改名 | 万千代丸(幼名)、武田信義 | |||
別名 | 武田七郎 | |||
戒名 | 浄鑑院殿英誉善香崇巌大禅定門 | |||
墓所 | 常福寺 | |||
藩 | 常陸国水戸藩主 | |||
氏族 | 徳川氏、武田氏 | |||
父母 | 父:徳川家康、母:下山殿(妙真院) | |||
兄弟 | 信康、亀姫、秀康、督姫、秀忠、忠吉 振姫、信吉、忠輝、松千代、仙千代 義直、頼宣、頼房 |
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妻 | 木下勝俊の娘・天祥院 | |||
子 | なし |
武田 信吉(たけだ のぶよし)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の5男。妻は木下勝俊の娘。
母が甲斐源氏武田氏一族であり、また徳川家康が武田氏に対し敬意を抱いていたため、断絶していた武田氏の名跡を再興し、武田姓を名乗った。父の関東移封に従って、下総国小金城3万石、続いて同国佐倉城10万石を与えられる。1600年の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務め、戦後、常陸国水戸に25万石の所領を与えられたが、病弱だった。なお、病気のため子を得ぬ体だっために子女はいない。
死因は、湿瘡。(痒みなどが激しく長く続くと死にいたる病)享年21。これにより武田氏は再び断絶した。水戸藩は異母弟の徳川頼宣が入り、頼宣が駿府に移封の後は同じく異母弟の徳川頼房が藩主の座につき水戸徳川家の祖となる。なお、信吉に女子がいるという説もあるが他の松平信吉との間違いであろう。 墓所は茨城県那珂市瓜連にある常福寺。