武宗 (唐)
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武宗(ぶそう、814年-846年、在位は840年-846年)は、唐の第十五代皇帝。第十二代皇帝・穆宗の五男で、元の名は瀍、諱は炎。子に杞王李峻・益王李峴・兗王李岐・徳王李峰・昌王李嵯らがいる。初めは頴王に封爵。
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[編集] 生涯
840年、兄文宗が没した後、宦官の仇士良らの手によって擁立された。全ての子を先立たれた文宗は生前、異母兄の敬宗の末子である李成美を皇太子としていたが、唐の実権を牛耳る仇士良を首謀とする神策軍派の宦官らによって、武宗が皇太弟に立てられ、李成美は陳王に封じられた。後に李成美は殺害されたという。
武宗は冷徹で度胸があり決断力に富んだ人物であった。彼は李徳裕を宰相として、宦官勢力の抑制や中央集権体制の立て直しに努めた。だが、道士・趙帰真を厚く信任して次第に道教を篤く信じるようになり、「会昌の廃仏」と言われる廃仏令を出したりもしている。もっとも、当時の寺院は大量の荘園の保有者でありながら無税であり、しかも原材料である銅の不足から来る銅銭の不足によって経済的な混乱をきたす最中で、銅を大量に大量に使って仏像や仏具を製造していた仏教側の問題もあり、純粋な経済政策と見なす学者もいるほどである。
また当時を争った李沈が身の安全を図る為に仏門に逃れたことも、仏教攻撃の一因になったとの伝説もある。
846年に、長命を祈って道士が勧めた丹薬の飲み過ぎで、亡兄の文宗と同じ33歳で突如逝去した。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
[編集] 子
- 杞王李峻
- 益王李峴
- 兗王李岐
- 徳王李嶧
- 昌王李嵯