森安重勝
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森安 重勝(もりやす しげかつ)は日本中央競馬会の騎手。実兄はナスノコトブキで菊花賞を制した森安弘明(騎手・調教師)。
関東競馬界の名門・尾形藤吉に師事したが、兄弟子に戦前から主戦を張っていた大騎手・保田隆芳が、弟弟子には後年尾形厩舎の主戦騎手となる伊藤正徳がいた事もあり、現役時代は必ずしも騎乗馬には恵まれなかった。更に減量に苦しむ体質の為か、軽い斤量のレースには苦労していた。当時は馬齢で52キロ設定があったが、しばしば52.5キロで騎乗した。
コレヒサで春の天皇賞、メイズイで皐月賞・ダービーの二冠、ワイルドモアで皐月賞、ジュピックとシャダイターキンで2年連続でオークスを制覇した。クラシックレースには滅法強く1969年にはワイルドモアで皐月賞を見事に逃げ切ったがレース後、同馬は骨折が判明しダービーには不出場になる。代役馬としてハクエイホウで土砂降りのダービーを大外発走の不利を無視するが如く逃げまくり、ダイシンボルガード・ミノルに僅かに遅れて3着入線した。
この年の尾形厩舎はワイルドモア・ミノル・ハクエイホウ・メジロアサマと、実力馬四頭(尾形四天王)が存在していた。これら四頭全てが重賞勝ちを記録した。森安もこの頃が絶頂期であった。
森安は腕に自信があったタイプで、1963年メイズイの三冠が掛かった菊花賞でコウライオーの挑発に暴走してしまった。菊花賞数日前のインタビューで森安は『敵はレコードタイムだけだね』と豪語した。これがコウライオーの浅見秀一騎手が快く思うはずもなく、メイズイが暴走するように先手争いを仕掛けたといっても過言ではなかった。レースは同厩のグレートヨルカが優勝し、尾形厩舎が同年の牡馬クラシックを独占したのだが、グレートヨルカの鞍上・保田にレースが終わるなり相当ひどく叱られたというエピソードがある。実際、表彰式の保田に笑顔は無かった。後に、『三冠達成のプレッシャーに押し潰されない為に強気の態度を取らざる得なかった』事が判明するが、事実、森安はプレッシャーの為にレース後体調を崩し入院している。その後メイズイの鞍上は本来の主戦騎手・保田に戻るが、天皇賞は2着(春)・8着(秋)、有馬記念も2着と大レースに勝つ事は出来なかった。
1970年代前半より、めっきり騎乗馬が減り、森安の大ファンで当時は一流の競馬評論を展開していた大橋巨泉が、尾形調教師に公開質問をスポーツ紙上に発表していた。しかし、その後ギャラントモアでダービー卿チャレンジトロフィー2着、ニシキエースで安田記念・新潟ステークス(この年を最後に廃止・新潟大賞典に生まれ変わる福島大賞典の事であるが、新潟で代替開催された為に名称が変更された)優勝等、往年の逃げ馬を御す技術で玄人を唸らせた。
調教師試験も受けていたが、晩年はガンの為早逝されたのは競馬界にとって大きな損失であった。最高年間勝利数44。通算543勝。
[編集] 通算成績(中央競馬)
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 519 | 427 | 375 | 2264 | 3577 | .145 | .264 |
障害 | 24 | 10 | 18 | 41 | 101 | .238 | .337 |
計 | 543 | 437 | 393 | 2305 | 3678 | .148 | .266 |
- 重賞通算26勝