根岸鎮衛
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根岸 鎮衛(ねぎし しずもり、やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本、南町奉行。
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時代 | 江戸時代中期~後期 | |||
生誕 | 元文2年(1737年) | |||
死没 | 文化12年11月4日(1815年12月4日) | |||
別名 | 銕蔵、九郎左衛門、守信、守臣 | |||
官位 | 従五位下肥前守 | |||
幕府 | 勘定奉行、南町奉行、ほか | |||
父母 | 父:安生太左衛門定洪、母:河野通達の娘 養父:根岸衛規 |
150俵取りの下級御家人の安生定洪の3男として生まれた。江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、同じく150俵取りの下級御家人根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、根岸家の家督を継がせた。鎮衛が22歳の時のことである。(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であり、そのため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある。)
鎮衛は、根岸家の家督相続と同時に、勘定所の御勘定という中級幕吏となり、その後頭角をあらわし、5年後には評定所留役(評定所は現在の最高裁判所に相当し、留役はその予審の判事)となり、更にその5年後の1768年(明和5年)には勘定組頭、10年後の1776年(安永5年)には42歳にして勘定吟味役につき、従六位となって布衣となる。
鎮衛は、河川改修、普請工事に才腕を振るい、浅間山噴火後の天明3年、浅間山復興工事の巡検役に任命され、その功績により、翌1784年(天明4年)に佐渡奉行に昇格し、50俵加増となる。
その間江戸では田沼意次が失脚し、松平定信が老中首座となるが、この政変に巻き込まれることなく、定信により1787年(天明7年)7月、勘定奉行に抜擢され、家禄も200俵の蔵米取りの御家人から500石取りの歴とした旗本に改められた。更に1798年(寛政10年)には累進し南町奉行となり、1815年(文化12年)まで18年の長年に渡って在職し、死去直前にも加増され、最終的に1000石の旗本となった。在職中の11月4日に死去したが、11月9日と公表された。
なお、鎮衛の著として有名な耳袋(耳嚢)は、鎮衛が佐渡奉行在任中の1785年(天明5年)頃から亡くなる直前まで30年以上に亘って書き溜めた世間話の随筆集である。同僚や古老から聞き取った珍談・奇談が記録され、全10巻1000編もの膨大な量に及ぶ。内容は、公方から町人層まで身分を問わず様々な人々についての事柄などについてである。
下級幕吏出身のくだけた人物で、大岡忠相や遠山景元とはまた違った意味で講談で注目を集め、平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」シリーズをはじめ、小説・テレビ時代劇で題材とされている。
[編集] 年譜
1737年(元文2年) :生まれ
1758年(宝暦8年) :根岸家の家督を継ぎ、勘定所御勘定となる
1763年(宝暦13年):評定所留役
1768年(明和5年) :勘定組頭
1776年(安永5年) :勘定吟味役
1784年(天明4年) :佐渡奉行、加増(50俵)
1787年(天明7年) :勘定奉行(7月1日)、加増(500石)、従五位下肥前守叙任(12月)
1798年(寛政10年):南町奉行(11月11日)
1815年(文化12年):加増(500石)、都合1000石(6月)、死去(11月)、享年79
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