板井圭介
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板井 圭介(いたい けいすけ、1956年3月21日 - )は、大分県臼杵市出身で大鳴戸部屋所属の元大相撲力士。最高位は小結。身長178cm、体重139kg。得意は突き、押し。
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[編集] 来歴
高校卒業後実業団で活躍し、大鳴戸部屋(師匠は元関脇・高鐵山孝之進)に入門。幕下付出の申請をせず、前相撲から取ったが序ノ口から三段目まで3場所連続優勝するなど26連勝し、所要6場所で十両に昇進した(戦後では単独1位)。同時に四股名を師匠と同じ『高鐵山』(こうてつやま)と改名。幕内まで12場所で昇進し期待が大きかったが、入幕直後足の関節を痛め幕下まで一気に番付が降下し四股名を本名に戻した。後に幕内に復帰し、1989年3月場所には11勝4敗の成績で殊勲・技能両賞を獲得、翌場所小結まで昇進した。1991年7月場所で東前頭14枚目の地位で15戦全敗して十両に陥落(2006年現在、幕内で全敗を記録した最後の力士でもある)。最終場所となった翌場所では3日目から休場しその後廃業した。 ちなみにこの全敗は当時のラジオ番組で投稿ハガキのネタにされるほど印象的な出来事であった。
当初は現役を引退し、年寄・春日山を襲名することが確実だったが、日本相撲協会が年寄襲名の申請を却下したため協会を去ることとなった。なぜ協会が年寄襲名を認めず廃業させたかについては、土俵上のマナーが悪かった、引退後物議を醸した八百長相撲の主犯格として協会から目をつけられていた、といった憶測が流れたが、その真相は現在でも謎のままだ。廃業力士としては異例の国技館の土俵上においての断髪式を執り行った。
印象深いのは、対大乃国戦で腕をテーピングでグルグル巻きにして土俵に上がり、張り手一発で仕留めた取組である(板井は大乃国のみから金星を3個獲得している)。このテーピングについては卑怯、見栄えが悪い、みっともないと協会内部、マスコミなどで問題にしており、年寄襲名を認めなかった一因とも言われている。また、大乃国がガチンコ力士だったためそのような行為をしたとも言われる。
師匠の大鳴戸親方は廃業後、大相撲の「八百長」を告発し、板井が千代の富士グループの仲介・工作人(中盆)として八百長を行っていたと主張したが、板井は沈黙を守った(板井は千代の富士に全敗しており、千代の富士現役最後の白星は板井からだった)。大鳴戸の死後、2000年1月、外国特派員協会の講演で、自らも「八百長」を告発し物議を醸した。しかし、「(八百長の)証拠は私です」など煙に巻いた発言も多く、板井が指摘した「八百長」がどこまでが本当でどこまでが嘘かは謎のままである。
[編集] 主な成績
- 通算成績:493勝515敗87休(79場所)
- 幕内成績:331勝438敗41休(54場所)
[編集] 三賞・金星
- 三賞:2回
- 殊勲賞:1回(1989年3月場所)
- 技能賞:1回(1989年3月場所)
- 金星:3個(大乃国3個)
[編集] 各段優勝
- 十両:2回(1980年7月場所、1981年3月場所)
- 幕下:1回(1982年1月場所)
- 三段目:1回(1979年3月場所)
- 序二段:1回(1979年1月場所)
- 序ノ口:1回(1978年11月場所)
[編集] 改名歴
- 板井 圭介(いたい けいすけ)1978年9月場所-1979年7月場所
- 高鐵山 圭介(こうてつやま -)1979年9月場所-1981年9月場所
- 板井 圭介(いたい -)1981年11月場所-1991年9月場所
[編集] エピソード
- 実は無類のサッカー好き。2006年7月23日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」では、もともと大相撲の問題について専門家の立場からコメントをするはずだったが、途中からサッカーの魅力について熱弁をふるい始めたほどである。
[編集] 関連書籍
- 著書
- 『中盆 私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』、小学館、2000年(ISBN 4093795460)