松平家元
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松平 家元( まつだいら いえもと )は、松平宗家8代目の三河国・岡崎城主・松平広忠の庶子で、徳川家康の異母弟とされる。
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時代 | 戦国時代から江戸時代 | |||
生誕 | 1547年11月(天文16年10月)? また1548年11月(天文17年10月)? |
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死没 | 1602年9月19日(慶長7年8月14日)? また1603年9月19日(慶長8年8月14日)? |
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官位 | 従五位下、右京大夫 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
別名 | 三郎五郎、勘六郎? | |||
父母 | 父:一説に松平広忠 母:御湯殿方(諸説あり) |
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兄弟 | 長兄:一説に徳川家康(異母兄) 次兄:一説に内藤信成(異母兄) |
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子 | 息子:不詳 |
目次 |
[編集] 略伝・人物
[編集] 概要
- 生母は不詳とされるが、『朝野旧聞褒藁』12巻410項目の「御系図」によると、生母は御湯殿方としている。また、天文16年(1547年)に生まれ、没年は慶長7年(1602年)とする。
- 『徳川諸家系譜』(続群書類従完成会刊)第1巻「徳川幕府家譜」35項目によると、広忠が岩松八弥に暗殺される前年の天文17年(1548年)に生まれ、没年は慶長8年(1603年)とする。
[編集] 生涯
彼は、異母兄とされる内藤信成と同様に広忠から子と認められず、私生児扱いにされたという。その代わり広忠から特別な手計らいで脇差を与えられて、母共々にそれを形見にしたという。
以降は彼は母に育てられて成長したという。彼が成長し、永禄3年(1560年)頃に母と共に岡崎城を居城としたばかりの家康に謁見を願い出した。家康は快く受け入れて、この母子と会ったという。その時に彼は亡き広忠の形見である例の脇差を家康に差し出した。家康はこの脇差を見て、彼が間違いなく自分の弟であると認めて、自分の小姓にしたという。後に彼は家康の一字の「家」をいただき、松平三郎五郎「家元」と名乗ったという。
しかし、家元は病弱のために床に臥せている状態が続いたという。やがて、慶長7年(1602年)または同8年(1603年)に55歳で亡くなったとされている。戒名は「正元院殿傑伝宗英大居士」、墓所は岡崎市の法蔵寺にあるとされる。また、慶長4年(1599年)に病没した説もあるという。
[編集] 家元の存在
この話は実は家康の異父弟である久松勝元の生涯とその没年月日が殆ど一致している箇所があり、この家元は康元と同人物ではないかといわれる。また、その弟の久松勝俊及び長沢松平氏一族の松平忠政(一説では家康の兄弟)と同人物ともいわれているが、真偽の程は定かではない。