村井貞勝
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村井 貞勝(むらい さだかつ、享禄元年(1528年) - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、織田氏の家臣。吉兵衛。民部少輔。長門守。春長軒。
出身は近江国であるが、行政手腕に長けていたため、織田信長から厚い信任を受けて重用される。一説には1556年に織田信行(信勝)が兄の信長に叛旗を翻した時には既に信長に仕えており、信勝派の柴田勝家との和平交渉と担当したと言われている。信長が京都を支配下に置いた後は、信長から京都所司代に任命され、京都の治安維持や朝廷との交渉などを任されたという。
1581年、出家して村井春長軒と号し、家督を子の村井貞成に譲っている。
1582年、信長が明智光秀の謀反により殺された本能寺の変のとき、貞勝は信長の嫡男・織田信忠とともに二条城に立て籠もって明智軍に対して抗戦したが、信忠とともに討死にしたという。また、子の貞成・清次も同所で討死している。娘二人は佐々成政、前田玄以に嫁いでいる。
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