有賀幸作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有賀 幸作(あるが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和沈没時の艦長として有名である。
長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒。1917年(大正6年)11月24日、海軍兵学校卒(45期)。長野県中信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読むのが正しい。
水雷戦隊の指揮官として経験を重ね、机上の理論より実戦での経験を大切にする当時としては数少ない軍人の一人であった。豪放大胆な性格で、戦上手な指揮官として部下からの信頼も厚い人物であった。見事な禿頭な上に大変なヘビースモーカーで、部下から「エントツ男」とあだ名されたりしていた。また、極度の水虫にかかっており、艦内でも草履を履いていた。
第四駆逐隊司令としてハワイ真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に参加。ミッドウェー海戦では、大破炎上した航空母艦「赤城」を指揮下の駆逐艦「野分」「嵐」の魚雷によって沈没処分するという悲劇を味わった。その後ソロモン方面の諸海戦に参加、重巡洋艦「鳥海」艦長となるも、マラリアに罹患し内地へ帰還。水雷学校(横須賀)教頭を拝命する。しかし実戦畑を歩いてきた有賀にとっては机上の学問を教授しなければならない教頭の職は本意ではなかったらしい。
1944年(昭和19年)11月6日、大和艦長に着任する。久しぶりの海上勤務に非常に嬉しい事であったらしく、家族宛ての手紙に『男子の本懐これに勝るものなし』と書いた手紙を送っている。有賀の豪放磊落な性格(その時の逸話は後述)は大和乗組員に好意を持って受け入れられ、大いに信頼を得たと伝えられている。翌年4月7日、坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け沈没した大和と運命を共にした。なお、沈没後に洋上で漂流しているところを他の乗組員多数に目撃されており、その後に自殺したものという推測がある。これは辺見じゅん『男たちの大和』に発表された逸話であるが、大和の前艦長である森下信衛第2艦隊参謀長を有賀艦長と見誤ったと云うのが事実の様で、実際には「俺は泳ぎが達者だから、泳いでしまうかも知れぬ」と部下にロープを持って来させ、羅針盤に体を縛り付けて大和と運命を共にしたと云うのが事実である(目撃者の回想による)。戦死時は海軍大佐であった。享年49。戦死後、4月7日付で海軍中将に昇格した。 ちなみに、この時大和に同乗していた第2艦隊参謀長の森下信衛、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵とは海軍兵学校の同期である。
墓所は長野県辰野町見宗寺。なお、近くの法性(ほっしょう)神社に、戦う大和と有賀艦長の肖像レリーフで飾られた自然石の記念碑が建立されている。
[編集] 逸話
ジャワ攻略戦の際、指揮所で衛生兵に「足が痒くてかなわん。薬を塗ってくれ」と衛生兵に水虫の治療をさせながら指揮をしたと云われている。
菊水作戦が発令された際、大和に乗艦していた傷病者と老兵、兵学校卒業直後の53名の士官候補生が第二艦隊司令長官伊藤整一中将の命令により退艦命令が出される。しかし『戦艦大和の主』を自称していた奥田特務少佐(当時第二主砲砲塔長。実戦配備された時から一貫して大和に乗艦していた)に激しく退艦を拒否される(その際、奥田特務少佐は「大和が死にに行くのなら、ワシが付いて行って最後を見てやらねばならぬ」と激怒し、艦橋に居た有賀の所に怒鳴り込んで行ったと云う)。有賀は怒り狂う奥田特務少佐に対し軍人勅諭を例に出しながら説得する。有賀の説得に奥田特務少佐も折れ退艦命令を受け入れる。有賀・奥田両名も涙を流し、その姿に艦橋に居た将校・兵士も思わずもらい泣きをしたと云う(このエピソードは戦後、奥田特務少佐の回想録に記述されている)
菊水作戦出撃前の夜、戦艦大和艦内で酒盛りをしていた青年海軍士官達の処を訪れた際、酩酊した海軍士官に「木魚が来た!」と頭をペチペチと叩かれたと云う。本来なら怒り出すところであるが、有賀は高笑いしてされるに任せていたと云う。なお、このエピソードは、1981年に劇場公開された東宝映画『連合艦隊』(監督:松林宗恵。特技監督:中野昭慶)でも、形を少し変えた上で描かれている(この映画では、中谷一郎が有賀艦長役を演じた)。