曾我蕭白
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曾我蕭白(そが しょうはく、 享保15年(1730年) - 天明元年1月7日(1781年1月30日))は、江戸時代の絵師。蛇足軒と自ら号した。
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[編集] 経歴
享保15年(1730年)、京都に生まれる。蕭白の生涯については資料が少なく不明な点が多い。伊勢地方に多くの作品が残ることから、かつては伊勢の出身とされたこともあったが、近年の研究の進展により、「丹波屋」と号する京都に商人の子として生まれ、本姓を三浦と称したことなどが明らかになっている。京都市上京区の興聖寺には、蕭白の代表作『寒山拾得(かんざんじっとく)図』が残るほか、蕭白一族の墓もある。
古くから、高橋敬甫に師事したとの説があるが、証明する文献が無いことから今日では否定的な意見もある。自らは室町時代の画家曾我蛇足の画系に属するとしているが、その頃、曾我派の画系は絶えている。
[編集] 評価
作品も制作時期のわかるものはきわめて少ないが、29歳ごろと35歳ごろの2回、伊勢地方に滞在したことがわかっている。『群仙図』、『旧永島家襖絵』などの代表作は2回目の伊勢滞在時に描かれたものと考えられている。
蕭白の特徴は、部分の細密で精確な描写能力と対象の動性の的確かつ大胆な把握にある。構図における大胆な空間把握と、顔料の性質を熟知した上になりたつさまざまな独創に支えられた鮮やかな彩色は、相共に強烈な不安定さを生み出し、見るものを魅了しまたおののかせる。江戸時代の画史においてすでに「異端」「狂気」の画家と位置付けられていた蕭白の絵は、仙人、唐獅子、中国の故事など伝統的な画題を扱いながら、その画題を醜悪、剽軽に描き出すなど表現は型破りで破天荒なものであり、見る者の神経を逆撫でするような強い印象を与えずにはおかない。
明治時代以降は評価が低かったが、1970年頃『美術手帖』誌の連載「奇想の系譜」で取り上げらたこと等がきっかけとなり、江戸時代絵画史に異彩を放つ個性的な画家として近年再注目されている。
また、横尾忠則の作品には蕭白の作品を下敷きにして描かれたものもある。『群仙図』から触発されて『消された記憶』、『雪山童子図』からは『二河白道図』などが制作されている。
[編集] 代表作
- 旧永島家襖絵(三重県立美術館)重要文化財
- 寒山拾得図(京都・興聖寺)重要文化財 京都国立博物館委託
- 唐獅子図(三重・朝田寺)重要文化財
- 群仙図(文化庁)重要文化財
- 楼閣山水図屏風(近江神宮)重要文化財
- 美人図(奈良県立美術館)
- 雪山童子図(継松寺)
- 林和靖図屏風(三重県立美術館)
[編集] 参考文献
- 「蕭白新論」(佐藤康弘・小学館ギャラリー新編名宝日本の美術第27巻「若冲・蕭白」・㈱小学館・1991年)