旭豊勝照
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旭豊勝照(あさひゆたか かつてる、1968年9月10日-)は愛知県春日井市出身の元大相撲力士。大島部屋所属。本名は市川耐治(元関脇・羽黒山の婿養子時は安念耐治)。身長191cm、体重146kg。得意手は左四つ、上手投げ。趣味はマリンスポーツ。俳優の松平健に似た外見から、現役時代には「角界の暴れん坊将軍」と呼ばれた。最高位は東小結(1996年7月場所、11月場所)。現・年寄立浪。
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[編集] 来歴
中学時代は水泳部に所属し大会でも入賞するなど活躍した。高校に進学しても水泳を続けたが、高校卒業と同時に父の知人だった大島親方(大関・旭國斗雄)の大島部屋に入門。1987年3月場所に初土俵を踏んだ。しかし、リューマチ熱や左足の故障に悩まされ2度番付外に陥落した。当時は再出世の力士も出世披露を受けなければいけなかったので新序の時を含めて3回出世披露を受けた。
以降は、着実に番付を上げて行き入門から3年で幕下に昇進した。体重が増えず幕下と三段目を往復する生活が続いた。徐々に体重も増えだし幕下中位でも成績を残せるようになり1992年11月場所には西幕下16枚目の地位で幕下優勝を果たした。しかし規定により場所後の十両昇進はならず、数場所の間幕下の1桁を一進一退した。この間、母親の勧めもあって名を耐治から勝照に改めている。改名の効果があったか、1993年9月場所には東幕下4枚目の地位で再び幕下優勝を果たし、翌11月場所に十両に昇進。1995年3月場所には新入幕を果たした。
左四つ得意で右上手を取ると力を発揮し、1996年5月場所には新三役・小結に昇進した。その場所には8勝を挙げ、翌7月場所には関脇に昇進してもおかしくは無かったが西から東に回っただけで番付運に泣かされ昇進できなかった。その後も幕内上位での相撲が続き、曙、貴乃花から金星を獲得するなど地力の高さを見せた。
1995年4月には立浪親方(関脇・安念山治)の長女と結婚し養子縁組を結び婿養子となり、立浪部屋の後継者となった。1999年2月には立浪親方が定年を迎えるため、余力を残しながら1月場所中に引退。準年寄・旭豊を経て2月に年寄・立浪を襲名して立浪部屋を継承した。ところが、部屋経営や指導方針の意見の違いから先代と対立するようになった。そして対立が表面化したのは引退相撲の直後だった。引退相撲の利益を先代と妻に持ち逃げされるなどの問題が発生し、部屋を継承してから1年も経たずに金銭管理面での対立等が原因となって別居状態に陥ってしまった。
そして離婚及び養子縁組解消の訴訟、先代からは部屋の明け渡し及び年寄名跡の襲名継承金(譲渡代金)1億7500万円の支払いを求める訴訟を起こされた。最高裁までもつれ込み、結局勝訴したが年寄名跡の価値と対価の釣り合いが取れているかなど問題になった。一時は関取が不在で低迷していた時期があったが、2006年1月場所には猛虎浪が十両に昇進し、久しぶりに関取が誕生した。また先代の長女との離婚後、2004年11月には別の女性と再婚している。
なお、先代と対立して相撲界を去った元横綱・双羽黒の北尾光司を部屋のアドバイザーに迎えている。
[編集] 主な戦績
- 生涯成績:364勝341敗26休(72場所)
- 幕内成績: 160勝198敗
- 幕内在位:24場所
- 金星:4個(曙2個、貴乃花2個)
[編集] 三賞
- 殊勲賞 1回(1996年1月場所)
- 敢闘賞 1回(1996年9月場所)
[編集] 各段優勝
- 十両優勝 1回(1995年1月場所)
- 幕下優勝 2回(1992年11月場所、1993年9月場所)
[編集] 改名歴
- 市川 耐治(いちかわ たいじ)1987年3月場所~1987年9月場所
- 旭豊 耐治(あさひゆたか-)1987年11月場所~1993年5月場所
- 旭豊 勝照(あさひゆたか かつてる)1993年7月場所~1999年1月場所
[編集] 年寄変遷
- 旭豊 耐治(あさひゆたか)1999年1月~2月〔準年寄〕
- 立浪 耐治(たつなみ)1999年2月~