旭橋
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旭橋(あさひばし)は、北海道旭川市にある道路橋。石狩川が牛朱別川と合流する地点に架けられており、国道40号が通過する。旭川中心部と北部を繋ぐ市内交通の要衝であり、美しい姿から旭川のシンボルとしても市民に親しまれている。
北海道札幌市の豊平橋、北海道釧路市の幣舞橋と共に北海道三大名橋といわれたが現在では旭橋のみが架橋当時の姿を残している。
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[編集] 歴史
初代旭橋は1904年(明治37年)に架けられた鋼橋であったが、大正末になると木製部分を中心に老朽化が進み、都市拡大に伴う交通量増加に対応できなくなりつつあった。さらに旭川市街軌道が旭橋を通る路線を計画していたこともあり、旭橋は架け替えの必要に迫られた。
1927年(昭和2年)、北海道帝国大学土木工学科橋梁学教授の吉町太郎一に設計指導を依頼し、内務省と協議した結果、橋梁形式にブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチ橋を採用することとなった。日本でこの形式の橋は岩手県一関市の北上大橋、東京都荒川区/墨田区の白髭橋、岐阜県岐阜市の忠節橋、そして旭橋の4例しかない。工事は1929年より始められ、1932年(昭和7年)11月3日に竣功した。建設総費用は1,038,650円であった。
完成後70年以上経過しても使用できる強靭なその構造は、ドイツから輸入した高張力鋼の採用や48万本以上のリベット接合、床板にバックルプレートの使用やロッキングカラムなどの伸縮に耐える仕組みに因るものでる。
それらの最新技術で設計された目的は当時設置されていた旧陸軍第7師団司令部の存在に起因し、戦時に敵に橋脚が攻撃されても崩落に耐え、また戦車などの重量物の通行を可能とするためであった。激流と戦う戦艦とも称された。 また当時の旭橋正面には軍人勅諭網領を書いた旭日章が掲げられ、それに対し通行する者は立ち止まり辞儀や敬礼をし、市電車内では車掌が通過時に号令をしたという。 戦地に赴く軍人はその多くが、第7師団から旭橋を渡橋して出征していった。
軍都旭川を象徴し師団橋とも呼ばれた旭橋は第二次世界大戦終戦後に軍人勅諭は撤去され、市電も廃止されたが、そのまま旭川を象徴する構造物として近隣の常磐公園と共に市民に親しまれ、優雅なアーチを描くその姿は旭川を表現する意匠として各方面で用いられている。
[編集] 年表
- 1892年(明治25年) 土橋が架けられる
- 1894年(明治27年) 鷹栖橋完成
- 1898年(明治31年) 鷹栖橋流失
- 1904年(明治37年) 初代旭橋完成(設計北海道庁技師山岡三郎)
- 1932年(昭和7年) 現旭橋完成
- 同年 初代旭橋を再生し1971年(昭和46年)まで北海道深川市納内橋として架橋
- 1944年(昭和19年) 鉄製欄干の金属供出
- 1958年(昭和31年) 旭川市街軌道の廃止に因り軌道撤去
- 1959年(昭和32年) 鉄製欄干の復活
- 1966年(昭和41年) 照明をランタン型から水銀灯に変更
- 1983年(昭和58年) 照明を水銀灯からランタン型に復元・飾り灯を復元
- 2002年(平成14年) 土木学会選奨土木遺産に認定
- 2004年(平成16年) 北海道遺産に認定
[編集] データ
- 型式:ブレースト・リブ・キャンチレバー・タイドアーチ橋
- 橋長:225.43m
- 支間長:39.476+11.430+91.440+11.430+39.476+29.809m
- 橋員:18.3m
- 着手:1929年(昭和4年)11月14日
- 竣功:1932年(昭和7年)11月3日
- 設計者:北海道帝国大学工学部長 博士 吉町太郎一(1873-1961)、桶浦大三、塩塚重蔵
- 製作:汽車製造株式会社(現川崎重工業)
- 発注:北海道庁旭川土木事務所
- 建設費:1,038,650円77銭
- 管理者:北海道開発局
[編集] 外部リンク
旭橋ライブラリー(北海道開発局 旭川開発建設部 旭川道路事務所)
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