日目
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日目(にちもく、1260年(文応元年) - 1333年12月22日(元弘3年/正慶2年11月15日))は、法華宗の草創期において富士門流を率いた僧侶の一人。日興の高弟、本六の一人。日蓮正宗、日蓮本宗などでは第三祖に列せられている。
[編集] 略歴
- 1260年(文応1年)、伊豆仁田郡畠郡(静岡県函南町)で出生。誕生日は未詳。大石寺開基檀那、南条時光の甥にあたる。
- 1272年(文永9年)9月、走湯山円蔵坊に入る〔13歳〕。
- 1274年(文永11年)、初めて日興に謁す〔15歳〕。
- 1276年(建治2年)4月8日、伊豆走湯山円蔵坊において日興を師として得度す。
- 1277年(建治3年)2月、身延において五戒口決伝受を書写す。
- 1279年(弘安2年)2月、日蓮より、本尊を賜る。
- 1282年(弘安5年)、池上への途次、日蓮の命により、伊勢法印を論破す。
- 1283年(弘安6年)1月、日蓮大聖人1周忌、諸直弟身延御廟輪番の制を定め百ケ日忌を修す。
- 1284年(弘安7年)5月12日、太夫阿日尊を伴い身延に帰る。
- 1287年(弘安10年)10月13日、陸前一ノ迫柳ノ目に法華堂〔妙教寺〕を創す。
- 1290年(正応3年)10月18日、日興より法の内付〔血脈相承〕を受け、本尊〔譲座本尊〕を授与された。
- 大石寺塔中蓮蔵坊を創す。
- (蓮蔵坊:現在は学頭寮、次期法主予定者として公表された者が登座まで居住する坊)
- 7月1日、十宗房を論破す。日道及び妙教寺3代日運、日目により得度す。
- 1300年(正安2年)4月13日、蓮阿尼〔日目母〕亡夫新田重綱の供養碑〔日目筆〕を陸前新田柴垣に建つ。
- 1301年(正安3年)10月13日、日興、本尊を書写し、了性房日乗及び新田頼綱日善〔日目兄〕に授与。
- 1302年(乾元1年)、日目、駿河安居山に東漸寺を創す。
- 1321年(元亨1年)8月10日、日興へ伊豆の田1反の供養をする。
- 1324年(正中1年)12月29日、日興本尊を書写し日目に授与。
- 1326年(嘉暦1年)4月、本尊を書写し日郷に授与。
- 1327年(嘉暦2年)11月10日、日道に土地〔陸前三ノ迫加賀野・伊豆南条〕譲状を与う。日道に上新田坊を譲る。
- 1330年(元徳2年)11月10日、日興より「跡条条事」を与えられ本門弘通の大導師(一閻浮提の座主)と定められた。
- 1331年(元弘1年)12月、日郷に本尊を授与。
- 1332年(元弘2年)1月2日、本尊を書写。10月25日、興学の書を民部阿日盛に与う。
- 11月3日、日興、本尊を書写し日目に授与〔御手続本尊〕。日道、日目の命により陸前宮野に妙円寺を創す。
- 1333年(元弘3年)1月13日、本尊を書写し陸前三迫新田太夫四郎妻に授与。
- 2月13日、日目等、日興の遺誡により大聖人御影並びに園城寺御下文守護につき違背なきよう誡む。
- 2月彼岸、本尊を書写し陸前一迫河田美濃房に授与。
- 3月、本尊を書写し陸前新田太夫四郎母に授与。3月、本尊を書写し新田十郎重道妻の姉に授与。
- 10月、法を日道に付す。
- 11月15日、京の皇室への申状提出(天奏)に向かう途中、美濃垂井の宿(岐阜県垂井町)で74歳で遷化(死去)した。
- 日郷は、遺骨を奉じて大石寺に帰り下之坊に納めた(現在は大石寺に納められている)。
- 日尊は、日目の意志を継いで上洛し、翌年、天奏を果たした。その後、京における布教は日尊によって継続された。日尊は、のちに京要法寺を創す。日尊の要請により、日目の分骨が京要法寺に納められている。
日目の遷化の地、美濃垂井の宿には現在、天奏寺(正信会に所属)が建てられている。
日目は大石寺蓮蔵坊安置の本尊をはじめ曼荼羅本尊を数体しか書写していないが、これは日目が学頭職だったので本尊は日興が書写していたためといわれている。
なお富士門流の一部では、「日興跡条々事」の文や日目の最期の言葉として伝えられるものを根拠として、「いつの日か、日目上人の再誕が出現し(目師再誕)、前世に果たせなかった国主諌暁を完遂する(目師再天奏)。その時、広宣流布が実現する」との伝承があり、今も信じられている。
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[編集] 本六
- 寂日房日華 - 下条妙蓮寺開基、上条大石寺塔中寂日坊開基
- 蓮蔵房日目 - 上条大石寺第2代
- 下野房日秀 - 上条大石寺塔中理境坊開基
- 少輔房日禅 - 上条大石寺塔中南之坊開基
- 上蓮房日仙 - 讃岐本門寺開基
- 了性房日乗 - 鎌倉常在寺開基