日前神宮・國懸神宮
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日前神宮・國懸神宮 | |
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所在地 | 和歌山県和歌山市秋月365 |
位置 | -- |
主祭神 | 日前大神(日前神宮) 國懸大神(國懸神宮) |
社格等 | 式内社・紀伊国一之宮・官幣大社 |
創建 | 神武天皇2年 |
本殿の様式 | -- |
例祭 | 9月26日 |
主な神事 | -- |
日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)とは、和歌山県和歌山市に鎮座する神社である。宮司は代々紀氏・紀国造家。ひとつの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)とも(名草宮とも)呼ばれる。両社とも延喜式内社・旧官幣大社であり、非常に格式の高い神社である。同一の境内に官幣大社が二つも並ぶ日本で唯一の神宮(神社)でありたいへん珍しい。毎年、正月三が日は約30万人の参拝者がある。参拝者は和歌山県内のみならず、大阪・兵庫方面からなど近畿圏からも多く訪れる。
また、本社と和歌山市内にある旧官幣大社である竈山神社、旧官幣中社である伊太祁曽神社を詣でることを「三社参り」と言って、古くより三社をお参りする人が多い。この三社を結ぶ形で和歌山電鐵貴志川線が走っている。最寄駅は和歌山電鐵貴志川線日前宮駅。
目次 |
[編集] 御祭神
- 日前神宮
- 國懸神宮
[編集] 歴史
2600年の歴史を誇る日本で最も歴史のある神社の一つで、神話と関わりが深い。『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家の祖神である天道根命が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)を賜り、日像鏡が日前宮の、日矛鏡が國懸宮の神体となったとしている。これらの鏡はいずれも伊勢神宮内蔵の神宝である八咫鏡と同等のものであり、八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。日神(天照大神)に対して日前神という名称からしても、特別な神であると考えられる。また、伊勢が大和への東の出口に対し、西の出口であったため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれる。日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。なお、日前大神は天照大神の別名とされることについては諸説がある。
社伝によれば、当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したとしている。なお、伊太祁曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。
天武天皇紀朱鳥元年(686年)には國懸神に奉幣したとの記事がある。『延喜式』では名神大社に列し、紀伊国一之宮とされた。中世には、熊野詣での途中に参拝されたとの記録がある。
戦国時代、代々宮司を務めていた紀国造家は戦国大名となったが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉に攻め込まれ、社領が没収された。その際社殿が取り壊され境内が荒廃したが、江戸時代に紀州藩初代藩主徳川頼宣により社殿が再興された。しかしかつては広大な境内を誇ったが、現在は最盛期の五分の一の広さになってしまっており、社殿や施設などは往時を忍ぶに及ばない。さらに大正8年には国費による改善工事によって境内の建物はすべて一新されており、旧観は大きく変化している。大正15年3月の工事完成をもって現在の左右対称の姿となった。
明治4年、両宮ともに官幣大社に列せられた。現在は、神社本庁に属さない単立神社となっている。
[編集] 主な祭礼
- 例大祭 - 毎年9月26日
[編集] その他の祭典
[編集] 摂社・末社
- 摂社
- 天道根神社(祭神:天道根命)
- 中言社(祭神:名草姫命、名草彦命)
- 末社
- 松尾神社(祭神:大山咋神、中津島姫命)
- 深草神社(祭神:野槌神)