新田朝氏
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時代 | 鎌倉時代末期 | |||
生誕 | 文永6年(1269年) | |||
死没 | 元徳2年/1月2日 (1330年1月21日) |
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改名 | 氏光、朝兼 | |||
墓所 | 群馬県太田市円福寺 | |||
氏族 | 清和源氏新田氏族 | |||
父母 | 基氏、母親不詳 | |||
子 | 義貞、脇屋義助 |
新田 朝氏(にった ともうじ)は鎌倉時代の武士で、新田氏の7代当主。
新田義貞、脇屋義助の父として知られる。 また、鑁安寺新田足利両家系図(新田氏根本資料)によると、正和2年(1313年)頃に、朝氏は新田一族ゆかりである朝谷氏が常陸国南部を拠点に悪党として活躍し、その頭領である朝谷義秋・朝谷正義兄弟の評判を聞いた。彼は遠い親戚である朝谷兄弟を新田庄に招いて、自分の妹と領地を与えて、優遇したと記されている。