斯波義銀
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斯波義銀(しばよしかね、天文9年(1540年) - 慶長5年(1600年))は足利氏の一門、斯波氏の当主。斯波義統の嫡男。弟に毛利秀頼、津川義冬。尾張守護。斯波氏の当主は代々、兵衛佐および兵衛督に任ぜられ、そのため兵衛の唐名である武衛家と称されており、義銀は義統が守護に在位している時期は若武衛、義統死後は武衛、武衛様と称された。また、治部大輔にも任官。
1554年、義銀が手勢を率いて川狩に出かけている隙を衝かれて、父であり尾張守護の義統が、家臣で守護代の織田信友及びその家臣で尾張小守護代の坂井大膳によって攻め殺されてしまった。これを知った義銀はすぐさま織田信長に保護を求め、信長の助力を得て信友を討った。
その後、義銀は信長に庇護を受け、一時は信長が内外の目をそらすため、信長の画策により、義銀に尾張一国を譲り、義銀を国主に仕立てて、三河国の吉良氏、駿河国の今川氏など、足利氏一門の守護同士の盟約が図られるなど、義銀は信長の傀儡として利用された。 この同盟締結時、義銀は吉良氏の吉良義昭と対面したが、互いに足利一門の格式を誇り、席次を巡って争ったという。この時のことについて、『信長公記』によれば、同盟締結のため、斯波・吉良両氏の軍勢が約束の地として定めた上野原に到着し、互いに一町ほどの距離を置いてものものしく人数を立て備えたという。参会の場では両勢の一方には吉良義昭が、その一方には義銀がそれぞれ陣前に床机を据えていたというが、両人ともに一歩も動かなかったという。実は対面の席次のことで争いがあり、双方とも譲らなかったため、対面は相互に十歩程度前へ出て顔を合わせただけで、格別の挨拶の品もなく終了したという。
しかし、当初は吉良氏と席次を争っていた義銀も、斯波氏の権勢を取り戻そうと吉良氏らと結んで信長追放を画策していた。義銀は尾張国内に御座所を構える斯波一門の石橋氏と吉良義昭、今川義元、河内の服部左京と通じ、今川の軍勢を尾張国海上から引き入れようとしたのである。しかし、この密議は信長に知られるところとなり、義銀は信長の怒りを買って尾張から追放された。その後は京都に隠棲し、豊臣秀吉が関白となると秀吉に仕えたという。入道して三松軒と号す。